ビルマ作戦
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1943年(昭和18年)に構想されたビルマへの反攻作戦には、ANAKIMという呼称が与えられた。中華民国軍の指導に当たっていたアメリカ陸軍のスティルウェル中将は、この計画に強い関心を持っていた。1943年5月の第3回ワシントン会談に参加したスティルウェルは持論を説き、アメリカ海軍のキング作戦本部長も同調したが、スティルウェルが英国側に嫌悪されていたことや、ウィンストン・チャーチル英国首相が必要性を認めなかったこと、身内の米陸軍からもマーシャル参謀総長が実施不能と否定的見解を示したことでお蔵入りした。 ビルマで攻勢を実施する利点としては、中国本土で航空基地を作戦させていた関係上、政治的には魅力のあるものと映り、ルーズベルト大統領の側近には、第1回ケベック会談の際にこの話を蒸し返す者がいたが、そのための兵力を調達しなければならないのはイギリス軍であったので、欧州反攻を重視していたイギリスは反対していた。
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ビルマ作戦
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詳細は「ビルマの戦い」を参照 1941年12月、日本軍は「マレー作戦の側背の安定・援蒋ルートの遮断・対インドおよび対中国の圧迫強化」を目的としてビルマ(現ミャンマー)に進攻した。1942年3月8日には首都ラングーンを占領。日本軍は破竹の勢いで連合軍を追撃、5月末までに一掃し、ビルマを制圧した。英印軍は重装備・車両の類をことごとく放棄してアラカン山中に敗走し、一方、雲南方面への退路を遮断された中国軍は、北部ビルマに追い詰められ崩壊していった。司令官スチルウェル中将はわずか数十名とともにアラカン山中をさまよい、インドへ逃れた。以上のようにして、ビルマ作戦は日本軍の完全勝利をもって、雨季入り直前に予定通りその幕を閉じた。 その後日本軍は、インドの要衝カルカッタ(現コルカタ)への爆撃を実施した(カルカッタ爆撃)。
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