小津と戦争
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1937年7月に日中戦争が開始し、8月に親友の山中が応召されたが、小津も『父ありき』脱稿直後の9月10日に召集され、近衛歩兵第2連隊に歩兵伍長として入隊した。小津は毒ガス兵器を扱う上海派遣軍司令部直轄・野戦瓦斯第2中隊に配属され、9月27日に上海に上陸した。小津は第三小隊の班長となって各地を転戦し、南京陥落後の12月20日に安徽省滁県に入城した。1938年1月12日、上海へ戦友の遺骨を届けるための出張の帰路、南京郊外の句容にいた山中を訪ね、30分程の短い再会の時を過ごした。4月に徐州会戦に参加し、6月には軍曹に昇進し、9月まで南京に駐留した。同月に山中は戦病死し、訃報を知った小津は数日間無言になったという。その後は漢口作戦に参加し、1939年3月には南昌作戦に加わり、修水の渡河作戦で毒ガスを使用した。続いて南昌進撃のため厳しい行軍をするが、小津は「山中の供養だ」と思って歩いた。やがて南昌陥落で作戦は中止し、6月26日には九江で帰還命令が下り、7月13日に日本に帰国、7月16日に召集解除となった。 1939年12月、小津は帰還第1作として『彼氏南京へ行く』(後に『お茶漬の味』と改題)の脚本を執筆し、翌1940年に撮影準備を始めたが、内務省の事前検閲で全面改訂を申し渡され、出征前夜に夫婦でお茶漬けを食べるシーンが「赤飯を食べるべきところなのに不真面目」と非難された。結局製作は中止となり、次に『戸田家の兄妹』(1941年)を製作した。これまで小津作品はヒットしないと言われてきたが、この作品は興行的に大成功を収めた。次に応召直前に脚本を完成させていた『父ありき』(1942年)を撮影し、小津作品の常連俳優である笠智衆が初めて主演を務めた。この撮影中に太平洋戦争が開戦し、1942年に陸軍報道部は「大東亜映画」を企画して、大手3社に戦記映画を作らせた。松竹はビルマ作戦を描くことになり、小津が監督に抜擢された。タイトルは『ビルマ作戦 遥かなり父母の国』で脚本もほぼ完成していたが、軍官の求める勇ましい映画ではないため難色を示され、製作中止となった。 1943年6月、小津は軍報道部映画班員として南方へ派遣され、主にシンガポールに滞在した。同行者には監督の秋山耕作と脚本家の斎藤良輔がおり、遅れてカメラマンの厚田雄春が合流した。小津たちはインド独立をテーマとした国策映画『デリーへ、デリーへ』を撮ることになり、ペナンでスバス・チャンドラ・ボースと会見したり、ジャワでロケを行ったりしたが、戦況が悪化したため撮影中止となった。小津は厚田に後発スタッフが来ないよう電報を打たせたが、電報の配達が遅れたため、後発スタッフは行き違いで日本を出発してしまい、小津は「戦況のよくない洋上で船がやられたらどうするんだ」と激怒した。後発スタッフは何とか無事にシンガポールに到着し、撮影も続行されたが、やがて小津とスタッフ全員に非常召集がかかり、現地の軍に入営することになった。仕事のなくなった小津はテニスや読書をして穏やかに過ごし、夜は報道部の検閲試写室で「映写機の検査」と称して、接収した大量のアメリカ映画を鑑賞した。その中には『風と共に去りぬ』『嵐が丘』(1939年)、『怒りの葡萄』『ファンタジア』『レベッカ』(1940年)、『市民ケーン』(1941年)などが含まれており、『ファンタジア』を見た時は「こいつはいけない。相手がわるい。大変な相手とけんかした」と思ったという。 1945年8月15日にシンガポールで敗戦を迎えると、『デリーと、デリーへ』のフィルムと脚本を焼却処分し、映画班員とともにイギリス軍の監視下にあるジュロンの民間人収容所に入り、しばらく抑留生活を送った。小津は南方へ派遣されてからも松竹から給与を受け取っていたため、軍属ではなく民間人として扱われ、軍の収容所入りを免れていた。抑留中はゴム林での労働に従事し、収容所内での日本人向け新聞「自由通信」の編集もしていた。暇をみてはスタッフと連句を詠んでいたが、小津は後に「連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがあり、とても勉強になった」と回想している。同年12月、第一次引き揚げ船で帰国できることになり、スタッフの人数が定員を上回っていたため、クジ引きで帰還者を決めることにした。小津はクジに当たったが、「俺は後でいいよ」と妻子のあるスタッフに譲り、映画班の責任者として他のスタッフの帰還が終わるまで残留した。翌1946年2月に小津も帰還し、12日に広島県大竹に上陸した。
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