民間人収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)
アメリカ軍の占領地域となった場所では、民間人収容所が捕虜収容所とは別に設けられ、地域住民や近在の避難民が収容された。アメリカ軍は占領段階に応じたA-Dの4種の軍政要員を用意して、住民の管理・収容を進めた。本島に11か所、周辺島嶼に5か所の計16か所が設置されたが、作戦上の都合などにより合併や閉鎖が適宜行われた。本島では基地建設のために5月から7月にかけて中南部の無人化政策がとられ、北部東岸の収容所への強制移住が実施された。そのため、宜野座地区収容所には、生存島民の2/3にあたる20万人以上が押し込められた過密な状態だった。 多くの場合、収容所は集落単位で管理され、それぞれ憲兵が配置されて監視していた。境界が有刺鉄線で区分されている例もあった。収容所の間での移動は禁じられ、違反すれば「カナアミ」と称する有刺鉄線で囲んだ仮拘置所に留置された。収容所の内部的管理については自治体風の形式を採り、収容所ごとに「メイヤー」(市長)や民警察 (CP) といった役職を任命して、物資配給や労務者の供出などの実務を行わせた。 アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している。 なお、前述の日本兵による住民殺害事件にも、渡野喜屋事件のようにアメリカ軍管理下の民間人が殺傷された例がある。
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