石川民間人収容所
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1945年4月3日 米軍は美里村(現うるま市)石川に住民を収容し始める。 沖縄戦のさなか、米軍が民間人を収容した石川民間人収容所では、戦前人口2000人足らずの集落におよそ3万人の住民が集められた。 「 あれだけの屋敷の中に200名の人が住んでますよね。トイレが水洗も何もない。もうそのまま穴掘って、そのまま埋めてね。挙句の果ては井戸水に汚水が流れて、真っ赤になって。5歳前後のうちの弟なんかは赤痢で亡くなってね。ちょうどあの時はもうお棺も何もない。亡くなった後は松林に埋めて 」 —戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 収容所で弟を亡くした男性(QABより) 一番多かったのは那覇、読谷、北谷方面の住民であったという。読谷村史によると、石川地区に収容された読谷山村民の総数は4,626人で、そのうちの死亡者数は146人にのぼり、うち48人は4月から7月の4か月間での死亡で、死亡原因のほとんどが「栄養失調」であった。極めて劣悪な運営状態の下におかれていた大浦崎収容所など北部の民間人収容所に比べて食糧状況は比較的良かったといわれることの多い石川収容所だが、当初の実態は同様に厳しいものだったということがわかる。 また石川収容所にも沖縄戦で身寄りのない子どもたちを収容する石川孤児院と身寄りのない老人を収容する石川養老院が設置されたが、それに関する米軍資料はほとんど公開されていない。
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