石川理紀之助の遺跡地とは? わかりやすく解説

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石川理紀之助の遺跡地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 08:25 UTC 版)

石川理紀之助」の記事における「石川理紀之助の遺跡地」の解説

秋田市金足の「旧奈良家住宅」(秋田県立博物館分館)前の道路際に、生誕の地を示す大きな石碑百年碑 石川理紀之誕生之地」が建っている。 秋田県潟上市昭和豊川山田字家の上64潟上市郷土文化保存伝習館石川理紀之助資料館)がある。近隣には、晩年住居であった尚庵を中心に茶畠文庫備荒倉、廼舎、古人文庫遺著文庫三井文庫石川会館などがある。また、合い草木谷に石川理紀之助貧農生活を実践した山居跡があり、五時庵が復元されている。 潟上市郷土文化保存伝習館は、郷土先覚者である石川理紀之助数多く遺著遺稿収集文書などの保存公開行い次世代をになう人々育成地域文化発展目的として、1981年昭和56年7月石川理紀之助遺跡地のなかに設置された。石川理紀之助遺跡地は、秋田県石川ゆかりの建造物著書遺品など保存して石川思想・生活・業績そのままの姿で後世伝えるために、1964年昭和39年4月16日県史跡に指定したもので、潟上市昭和豊川山田字家の上と字市ノ坪の二か所からなっている。石川理紀之助遺跡地の敷地はいくつかの建造物現存しており、石川思想と行動明らかにするためにも、遺跡地の詳細紹介する草木谷山居跡(くさきだにさんきょあと)草木谷山居跡の案内板は、【草木谷(県指定遺跡地) ここ草木谷は石川理紀之助四十五歳の時、貧農の心を知り、貧乏からぬけ出す途を探るために、一小作人として貧しい貧乏生活をしたところである。(明治22年から約10年間住む) 谷間九反歩を耕し三年間で七〇〇円の利益上げるという斬新な農業経営は、当時の人々耳目を驚かせた。(当時・米・・・一石六円・反収・・・一石五斗石川独創的な経営観教え求めて近隣若者達がここに集まってきたのもこの頃で、石川はその若者たちと、次第衰退していく農村振興方策求め語りながら、適産調実施への準備をしていたのである現在の五時庵」は、石川常居としていた庵で、明治三十一年五月二十三日火災以前は、このほかに図のような棟数があった。「五時庵」のいわれ・・・火災後知人門人石川の住む庵を5時間作ったことから。 昭和町教育委員会潟上市教育委員会】。 草木谷山居は、1889年10月13日明治22年9月19日)、世論反論素直に受け、自ら貧農生活実践のために秋田縣南秋田郡豊川村山田市ノ坪(現 潟上市昭和豊川山田市ノ坪)に建てた山居である。草木谷は理紀之助の称した名称で、ここには条件の悪い水田が7反歩位あった。理紀之助はこの谷間独居して、耕地小作人となって貧農生活を始める。伝習館から山居跡の五時庵迄の距離は、実測すると1.7kmである。 石川山居の跡碑(いしかわおうさんきょのあとひ)石川没後二十周年記念として、豊川小学校発案により、南秋田郡教育会南秋田郡小学校長会が主催となり、郡内児童生徒教員拠出金によって建立され石川業績讃える記念碑草木谷山居跡にある。 表碑題額の【石川山居之跡碑】は内務大臣後藤文夫の書。その下に【寐帝居帝人をおこ春事勿連(寝て居て人をおこす事勿れ草木谷】と石川が遺した千古金言掲げた。書は石川真筆拡大である。裏側昭和十年十月十三日碑文山口蘭渓の書。三浦亀朋刻。 昭和11年記念碑除幕式盛大に開催された。 五時庵(ごじあん)山居後、明治23年免職となった巡査小野崎弘一家の来訪を救うために最初小屋譲り与え石川別に九尺四方小屋建てた1898年明治31年5月23日焼失し日誌詠草著書70余巻、蔵書二千余巻をことごとく失う。 弟子達が集まり5月27日5時間でその小屋立て直したので、五時庵と名付けた潟上市郷土文化保存伝習館石川理紀之助資料館石川遺著遺稿収集文書などの展示室と収蔵庫、さらに図書室学習室・研修室などをそなえた施設樅の木(もみのき)樅の木前の案内板は、【石川翁は、四十五才頃から暇をみては、ここの山を崩して沢を埋めていた。大体現のような状態になるまで埋めたてたのが明治三十三年。翁の随筆に、「私がこの沢を埋めはじめたころは、この樅の木は私の身長より小さかったが、今、予定どおり埋めおえたら、もう、私よりぐんと大きくなっている」と過ぎ去った十余年歳月ふりかえっている。それから更に年月過ぎて樅の木亭々ていてい)と大空そびえている。】。 石川家墓所いしかわけぼしょ)墓所前の案内板は、【明治二十年にはこのような屋根つきの墓地になっていたようである。「祖先お墓大切にすべし」を家の教えとして日拝(にっぱい)を行(ぎょう)としていた。石川翁の墓石は、翁が六十三才時につくったもので、左側に妻、右側師匠蓮阿上人がねむり、更に先祖墓碑二人の子どもの墓石並んでいる。】。 窓口四間奥行一間、それの両側一間三尺のそでをつけた屋根がけの建物で、13基の墓石などが整然と一列並んでいる。理紀之助の墓石石川明治40年63歳のときに建立したもので、墓石文字石川自筆左側に妻、右側和歌の師である蓮阿上人、さらに先祖墓碑長男民之助、次男老之助、孫の太朗の墓などがある。 石川家墓所のある場所は花畑といった。花畑は、特別の功労があったということ御免屋敷または花畑栄誉ハナ掛け)といわれている。覆い明治15年頃の廃材である。 墓所内の左上石川書かれた【日拝板】が掛かっている。この【日拝板】には、先祖命日日にち毎にその下に戒名書いている。以下に戒名省略し人数で示す。「日拜、三日-戒名1人五日-戒名6人、七日-戒名1人九日-戒名1人十日-戒名2人十二日-戒名1人十三日-戒名1人十四日-戒名1人十七日-戒名1人十九日-戒名1人、廿一日-戒名2人、廿二日-戒名1人、廿三日-戒名1人、廿四日-戒名3人、廿五日-戒名4人、廿六日-戒名3人、廿七日-戒名1人、廿八日-戒名1人廿九日-戒名1人」。そして最後に明治廿年旧七月十三日十二代石川理紀之助と書いている。川上富三の『石川理紀之助研究拾遺遺蹟地は語る-』123頁は、廿二日と廿五日戒名人数誤植、廿六日記載漏れ、旧七月十三日七月十三日誤植している。 石川理紀之助明治20年43自作の【日拝板】に自らを12と書き付けている。一方筑波大学助教授佐藤常雄は、『日本農書全集63巻』451頁で、石川理紀之助13代と位置づけている。 蓮阿上人分骨碑(れんあしょうにんぶんこつひ、れんなしょうにんぶんこつひ)墓所前と墓所内の説明書は、【蓮阿上人分骨碑は大部分遺骨なので、分骨というより本当の墓に近い。「明治七年建立 明治三年八月二十日卒、年七十四其骨千此」。上人から理紀之助の雅号「貞直」を授けられた。上人一首春秋わからぬときわの山はおのが千と せもしらでへぬらん」(碑面に刻む)】。 この説明書誤植が多い。『石川理紀之助研究拾遺遺蹟地は語る- 川上富三』128頁に「年七十四、其骨于此」、「春秋わからぬときわの山は、おのが千とせもしらでへぬらん」と記している。同著128頁に「蓮阿上人明治三年八月二十日、年七十四才でこの世去った。」とあるが、蓮阿上人秋田人名事典では明治三年八月二十四日卒である。 2016年2月13日現地調査で、碑面くずし字で「蓮阿 春秋も王可らぬ とき八能山盤 おの可ちと世も し良天遍ぬらん」、碑の右側面は楷書で「明治三年八月二十四日卒 年七十四其骨于此」と判明石川蓮阿上人正し没年月日分骨碑を刻されたことが証明された。于は「ここに」の意である。 椿窓庵(ちんそうあん)石川54歳住居石川自筆の【経済のこと石川三之助 明治31年10月18日】(個人)と石川日記克己 明治32年2月5日同年8月2日』に記されている。 『石川理紀之助研究拾遺 川上富三著』の39頁では、後に可祝庵となる場所であっただろうと想定されている。 候庵(こうあん現在の石家墓所の傍ら建ててあった石川住居明治32年2月8日石川55歳草木谷山居の五時庵から候庵に引越した住所秋田縣南秋田郡豊川村山田十二番地。 明治45年石川68歳元木実習場の小屋一部明治45年4月10日に候庵に移築したため、現存しない。 可祝庵(かしくあん)可祝庵跡前の案内板は、【可祝庵(かしゅくあん)の跡 「可祝かしゅく)」とは「かしこ」で、手紙最後に使うことば「敬具」・「敬白」と同意。一番高く自分田地がみわたされ、さらに墓地本宅中間位置するこの土地間口三間奥行一間の庵を建て、その前に二間二間半の古人堂を建てたのは明治三十三年である。候庵(こうあん墓地の傍)からここに移り晩年過ごそうとしていた。】。案内板可祝庵(かしゅくあん)のルビ誤植で、可祝庵(かしくあん)が正しい。 石川56歳老後住居として本宅墓所中間現在の石川会館の場所)の桐木畑に建て、移り住んだ住所秋田縣南秋田郡豊川村山田四番地。明治32年7月29日材木買い入れ、候庵から可祝庵への引越日は明治33年1月28日。候庵は事務所として継続した可祝庵の周りには、スグリなどの果樹植えてあった。 備荒倉(びこうそう備荒倉前の案内板は、【凶作食糧不足備えて玄米、籾(もみ)、麦、稗(ひえ)などをむして備えておいた石川家の倉。一日一合の米があれば、一人救いうるとの古人言葉に従って自らの食糧五合の中から一合あてよせて、たくわえたのである。】。 石川日記克己』の初出明治33年10月4日備荒倉前の案内板では石川家の倉とされるが、大きさからして飢饉時に飢人を救うための倉との兼用考えられる(『石川理紀之助研究拾遺遺蹟地は語る- 川上富三』)。 理紀之助が貯蔵した籾(もみ)約30石が現在も保管されている。 建てた年は不詳備荒倉内部に下井川町の学校の教師をしていた大沼省三(号は三圭)が描いた天明の飢饉】の大きな絵が掛けられている。当代石川紀行は、大沼省三は【天保の飢饉】の絵も描いたとのこと廼舎(うめのや)廼舎前の案内板は、【翁の次男老之助が草木谷に建ててあった農舎。老之助の死後明治三十六年死亡)ここに移し遺物語として老之助の木像安置して孫の教育よりどころとした。廼舎の号は、老之助の和歌うれしく年の始めにさきぬ かめにやさん かざしにやせん」によって石川があとからつけたもの明治三十五年勅題新年」の詠進歌陛下午前披講されている。)】。 明治35年1月18日に老之助が詠進した新年御題「梅」和歌うれしく年のはじめに さきぬ かめにやささん かざしにやせん」が御前披講となった案内板説明において、老之助の和歌「かめにやさん」は誤植で「かめにやささん」が正しい。山茶花サザンカ)の掛詞思われる石川59歳明治36年9月4日嗣子次男老之助が病死明治36年11月7日草木にあった老之助の農舎本宅上の丘に移築し、老之助の和歌から採って廼舎と名付けた。 老之助の木像安置し、老之助の農具書籍も置き、孫たち教育よりどころとした。 尚庵(しょうあん)尚庵前の案内板は、【石川翁が晩年十年生活した庵。六十一才から七十一才まで) ①板の間・・・村童学習室、学習用の古新聞農具等あり。②むしろの間・・・翁の常居・かさ・けら等あり。③畳の間・・・客間、ここが翁臨終の間である。聖賢に間に古人堂を祀っている。④物置入口板木午前三時たたいて村人起こしたもの。この建物は、明治38年、翁六十一才の時に建てたのである。】。 明治38年1月16日61歳亡くなる71歳までの晩年10ヵ年を過ごした庵。 の子供たちの学習となった板の間、理紀之助の常居であったむしろの間、客間石川尊敬する聖賢たちをまつった畳の間、そして物置四部屋からなっている。また、入口には、午前3時たたいて村人起こした板木つるされている。 石川61歳、孫のために明治38年1月4日可祝庵の移転取りかかり、廼舎の向かい移設して尚庵と名を改めた茶畠文庫ちゃばたけぶんこ)茶畠文庫前の案内板は、【明治四十五年大久保村元木実習場(潟上市昭和大久保元木)の事業終わり、その一部建物払い下げ受けて建築した主として秋田古文書類及び生前購読した雑誌類保存していた。】。 石川66歳、明治44年4月17日大久保にあった三間×六間位の小さな小屋産米検査員養成元木実習場とする。その小屋一部明治45年4月10日に候庵(現在の石家墓付近)に移築し木庵を建て雑誌年報類を収蔵し元木庵と命名石川日記克己明治45年5月18日に「茶畑文庫付け原文のまま)」と書かれている移築した現在の地は自家用茶の木栽培したところで茶畠といわれたため、茶畑文庫ではなく茶畠文庫称している。 茶畠文庫秋田地方古書類と購読した雑誌類を置き、住居の尚庵に愛読書を置き、古人文庫トタン文庫)に大切な書籍置いていたと考えられる。 二棟の右側古人文庫(こじんどうぶんこ)古人文庫前の案内板は、【明治三十一年五月草木草庵全焼し数千蔵書烏有帰した古人がその志を述べた幾多書籍失ったことを痛感した翁は火災につよいトタン張り書庫建てた。これが古人文庫である。明治三十四年この書庫建てた時、石川翁は「このような書庫秋田県では、はじめてであろうと言っている。ここに蔵書をおさめ、毎年曝書ばくしょ)をし蔵書目録照合して大切に保存していた。】。 川上富三は『石川理紀之助研究拾遺遺蹟地は語る-』で、古人文庫建造明治33年4月145頁)、遺著文庫建造昭和17年79頁)にしている。 筑波大学助教授佐藤常雄は、『日本農書全集63巻』で、古人文庫遺著文庫二つ建造明治34年448頁)とした。しかしながら古人文庫建造石川日記克己 上』123頁から明治33年4月正しい。 理紀之助は明治31年草木谷の草庵全焼して数千蔵書を灰にしてしまった苦い体験から、1901年明治34年4月大金75円を投じて火災に強いトタン張り古人文庫建造し参考書1万冊を蔵した昭和12年、この1万冊は完成した三井文庫移動した移設前は、左側古人文庫右側遺著文庫であった。 二棟の左側遺書文庫(いしょぶんこ)川上富三は遺著文庫とするが石碑碑文遺書文庫刻されている。『石川写真帖 石川会本発行 大正15年写真9の解説から大正6年建造である。石川理紀之助18年間の遺筆一切保存し合わせて門下生筆録蔵した。さらに、遺著文庫第二次世界大戦空襲による焼失を防ぐために利用された。 『図書館沿革秋田県立図書館1961年176項「6 図書疎開」に、【かねて連絡の上去る17年建設南秋田郡山田石川文庫に、貴重書を預かる事となり、昭和20年6月27日その疎開が行われた。石川文庫収容制限のある事であって多く望めなかった関係から左記図書のみ委託することとなったのである秋田落葉31冊、伊豆茶話31冊、真澄遊覧記109冊、家蔵文書100冊、政影日記25冊、石川翁百歌集2帖、貴重函2函、弥高文庫4終戦後10月になって、これらの図書は無事本館戻った。】。この記載において、石川文庫遺書文庫、「石川翁百歌集」は「石川理紀之助百歌集」である。 これらの書物現在の所蔵は、真崎勇助の「秋田落葉」・戸部一(懃)斎の「伊豆茶話」・「秋田藩家蔵文書」・「梅津政景日記」・「弥高文庫」は秋田県公文書館、「菅江真澄遊覧記」は秋田県立博物館石川翁百歌集秋田県立図書館である。貴重函2函は定かではない真崎勇助(1841年1917年)は石川より4歳年上郷土史家考古資料収集は約8,000点、菅江真澄書籍収集し価値づけた人物真崎勇助と石川交友。『石川理紀之助研究拾遺遺蹟地は語る- 川上富三』の117頁に菅江真澄古書書き写した房住山昔物語』を真崎勇助から借りて石川が『秋田のむかし(巻一)』(1898年)を編輯発行、また同書91頁に石川真崎勇助から6種の本を購入した記されている。石川日記克己』に真崎勇助から明治31年9月3日借りて10月19日返して書き写した記録がある。安藤和風時雨文庫秋田県立図書館所蔵)、東山三郎東山文庫秋田県公文書館所蔵)、真崎勇助の真崎文庫大館市中央図書館)は、秋田県歴史と文化を学ぶ上で、貴重で、しかも多く資料提供することから県内三大文庫数えられている。『秋田先覚1 近代秋田つちかった人びと 秋田県』(1968年)に、後藤女・石川理紀之助・真崎勇助の功績記されている。 石川文庫いしかわぶんこ)狭義には三井文庫広義には遺跡地にある文庫茶畠文庫古人文庫遺著文庫三井文庫)の総称をいう。 三井文庫(みついぶんこ)三井文庫前の案内板は、【三ツ井文庫 石川翁の業績思想、そして遺跡保存など顕彰献身している石川太朗石川の孫)を中心する石川会の事業感動した財閥三井報恩会が、資料散逸おそれて建てた文庫展示室。ここに約一万冊の蔵書数千遺稿遺著保存されていた。今日石川豊富な資料残っているのは、この文庫大きな役目果たしたためである。内部収蔵されていた蔵書遺稿等は現在伝習館書庫移されている。】。案内板の【三ツ井文庫】は誤植で、【三井文庫】が書くのが正しい。 川上富三は、『石川理紀之助研究拾遺遺蹟地は語る-』で三井文庫完成昭和12年としている。 石川会を後援した財団法人三井報恩会昭和9年4月設立)が資料散逸を防ぐために建造した文庫展示室。石川読破し書籍1万冊、日記歌稿、適産調や吉凶屏風探針(さぐり)、旅行用具などの遺稿遺品保存していた。 石川会館いしかわかいかん石川会館前の案内板は、【石川没後門人等が集まって、翁の精神継承顕彰努めることを考え石川会を組織しその活動拠点としてこの会館建てた門人伊藤一郎自宅にあった青年研修のための建物移したのである会誌発行し映画をつくり、講習会行い遺稿発行等の事業をこの会館行った。】。 理紀之助の没後大正9年石川精神継承事績顕彰のために門人たちが石川会を組織するその活動拠点として、飯田川町虻川集会修練の場として大正11年一心学館建設第12回石川会が一心学館開催され40出席青少年講習会夜学会に使用された。大正12年移設増築し石川会館改称した。この会館会誌の発行講演会開催遺稿刊行などが行われた。 石川家本宅いしかわほんたく1847年弘化4年)に建造されたが、石川生涯通してこの本宅改造増築などの手加えことはなかった。 石川神社いしかわじんじゃ)、堂林どうりん石川居村中央部小高い丘に建立され産土神うぶすながみ)の八幡宮で、いつのころから石川神社称された。 1910年明治43年八幡神社祭典に、山田村民が理紀之助の木像を祠に納めた末長く見守ってもうらう意味で、いわゆる生祀とは異なるものであった堂林神社の裏手の杉林で、理紀之助が基本財産として植林したもの。 農業畊作会記念碑(のうぎょうこうさくかいきねんひ)農業畊作会記念碑は、石川はじめ創立者13名が全員逝去し会員の子孫たち農業耕作会の伝統長く後世に残すために、農業耕作会の貯金一部記念碑建造費にあてて1927年昭和2年9月建造した記念碑である。 1867年慶応3年8月15日)、23歳前年凶作で、次代山田村背負っていくという自覚をもって実践的活動開始するため、山田村長男たち12名と【農業耕作会】を結成農業政策実際に試みた最初組織で、石川13回忌昭和2年解散した

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