石川理紀之助の遺跡地
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「石川理紀之助」の記事における「石川理紀之助の遺跡地」の解説
秋田市金足の「旧奈良家住宅」(秋田県立博物館の分館)前の道路際に、生誕の地を示す大きな石碑「百年碑 石川理紀之助誕生之地」が建っている。 秋田県潟上市昭和豊川山田字家の上64に潟上市郷土文化保存伝習館(石川理紀之助翁資料館)がある。近隣には、晩年の住居であった尚庵を中心に、茶畠文庫、備荒倉、梅廼舎、古人堂文庫、遺著文庫、三井文庫、石川会館などがある。また、山合いの草木谷に石川理紀之助が貧農生活を実践した山居跡があり、五時庵が復元されている。 潟上市郷土文化保存伝習館は、郷土の先覚者である石川理紀之助の数多くの遺著・遺稿・収集文書などの保存と公開を行い、次世代をになう人々の育成と地域文化の発展を目的として、1981年(昭和56年)7月に石川理紀之助翁遺跡地のなかに設置された。石川理紀之助翁遺跡地は、秋田県が石川ゆかりの建造物と著書・遺品などを保存して、石川の思想・生活・業績をそのままの姿で後世に伝えるために、1964年(昭和39年)4月16日に県史跡に指定したもので、潟上市昭和豊川山田字家の上と字市ノ坪の二か所からなっている。石川理紀之助翁遺跡地の敷地にはいくつかの建造物が現存しており、石川の思想と行動を明らかにするためにも、遺跡地の詳細を紹介する。 草木谷山居跡(くさきだにさんきょあと)草木谷山居跡の案内板は、【草木谷(県指定遺跡地) ここ草木谷は石川理紀之助が四十五歳の時、貧農の心を知り、貧乏からぬけ出す途を探るために、一小作人として貧しい貧乏生活をしたところである。(明治22年から約10年間住む) 谷間の九反歩を耕し、三年間で七〇〇円の利益を上げるという斬新な農業経営は、当時の人々の耳目を驚かせた。(当時・米・・・一石六円・反収・・・一石五斗) 石川の独創的な経営観や教えを求めて、近隣の若者達がここに集まってきたのもこの頃で、石川はその若者たちと、次第に衰退していく農村振興の方策を求め語りながら、適産調実施への準備をしていたのである。現在の「五時庵」は、石川の常居としていた庵で、明治三十一年五月二十三日の火災以前は、このほかに図のような棟数があった。「五時庵」のいわれ・・・火災後、知人や門人が石川の住む庵を5時間で作ったことから。 昭和町教育委員会、潟上市教育委員会】。 草木谷山居は、1889年10月13日(明治22年旧9月19日)、世論の反論を素直に受け、自ら貧農生活実践のために秋田縣南秋田郡豊川村山田市ノ坪(現 潟上市昭和豊川山田字市ノ坪)に建てた山居である。草木谷は理紀之助の称した名称で、ここには条件の悪い水田が7反歩位あった。理紀之助はこの谷間に独居して、耕地の小作人となって貧農生活を始める。伝習館から山居跡の五時庵迄の距離は、実測すると1.7kmである。 石川翁山居の跡碑(いしかわおうさんきょのあとひ)石川没後二十周年記念として、豊川小学校発案により、南秋田郡教育会と南秋田郡小学校長会が主催となり、郡内児童、生徒、教員の拠出金によって建立された石川の業績を讃える記念碑。草木谷山居跡にある。 表碑題額の【石川翁山居之跡碑】は内務大臣後藤文夫の書。その下に【寐帝居帝人をおこ春事勿連(寝て居て人をおこす事勿れ) 草木谷】と石川が遺した千古の金言を掲げた。書は石川の真筆の拡大である。裏側の昭和十年十月十三日の碑文は山口蘭渓の書。三浦亀朋刻。 昭和11年、記念碑の除幕式が盛大に開催された。 五時庵(ごじあん)山居後、明治23年、免職となった巡査小野崎弘一家の来訪を救うために最初の小屋を譲り与え、石川は別に九尺四方の小屋を建てた。 1898年(明治31年)5月23日焼失し、日誌、詠草、著書70余巻、蔵書二千余巻をことごとく失う。 弟子達が集まり、5月27日5時間でその小屋を立て直したので、五時庵と名付けた。 潟上市郷土文化保存伝習館(石川理紀之助翁資料館)石川の遺著・遺稿・収集文書などの展示室と収蔵庫、さらに図書室・学習室・研修室などをそなえた施設。 樅の木(もみのき)樅の木前の案内板は、【石川翁は、四十五才頃から暇をみては、ここの山を崩して沢を埋めていた。大体現在のような状態になるまで埋めたてたのが明治三十三年。翁の随筆に、「私がこの沢を埋めはじめたころは、この樅の木は私の身長より小さかったが、今、予定どおり埋めおえたら、もう、私よりぐんと大きくなっている」と過ぎ去った十余年の歳月をふりかえっている。それから更に年月は過ぎて、樅の木は亭々(ていてい)と大空にそびえている。】。 石川家墓所(いしかわけぼしょ)墓所前の案内板は、【明治二十年にはこのような屋根つきの墓地になっていたようである。「祖先のお墓を大切にすべし」を家の教えとして日拝(にっぱい)を行(ぎょう)としていた。石川翁の墓石は、翁が六十三才の時につくったもので、左側に妻、右側に師匠の蓮阿上人がねむり、更に先祖の墓碑、二人の子どもの墓石が並んでいる。】。 窓口四間の奥行一間、それの両側一間に三尺のそでをつけた屋根がけの建物で、13基の墓石などが整然と一列に並んでいる。理紀之助の墓石は石川が明治40年63歳のときに建立したもので、墓石の文字は石川の自筆。左側に妻、右側に和歌の師である蓮阿上人、さらに先祖の墓碑、長男民之助、次男老之助、孫の太朗の墓などがある。 石川家の墓所のある場所は花畑といった。花畑は、特別の功労があったということで御免地屋敷または花畑(栄誉のハナを掛け)といわれている。覆いは明治15年頃の廃材である。 墓所内の左上に石川の書かれた【日拝板】が掛かっている。この【日拝板】には、先祖の命日の日にち毎にその下に戒名を書いている。以下に戒名は省略し、人数で示す。「日拜、三日-戒名1人、五日-戒名6人、七日-戒名1人、九日-戒名1人、十日-戒名2人、十二日-戒名1人、十三日-戒名1人、十四日-戒名1人、十七日-戒名1人、十九日-戒名1人、廿一日-戒名2人、廿二日-戒名1人、廿三日-戒名1人、廿四日-戒名3人、廿五日-戒名4人、廿六日-戒名3人、廿七日-戒名1人、廿八日-戒名1人、廿九日-戒名1人」。そして最後に「明治廿年旧七月十三日、十二代石川理紀之助」と書いている。川上富三の『石川理紀之助翁研究拾遺-遺蹟地は語る-』123頁は、廿二日と廿五日の戒名人数誤植、廿六日の記載漏れ、旧七月十三日を七月十三日と誤植している。 石川理紀之助は明治20年43歳自作の【日拝板】に自らを12代と書き付けている。一方、筑波大学助教授の佐藤常雄は、『日本農書全集 第63巻』451頁で、石川理紀之助を13代と位置づけている。 蓮阿上人分骨碑(れんあしょうにんぶんこつひ、れんなしょうにんぶんこつひ)墓所前と墓所内の説明書は、【蓮阿上人分骨碑は大部分の遺骨なので、分骨というより本当の墓に近い。「明治七年建立 明治三年八月二十日卒、年七十四其骨千此」。上人から理紀之助の雅号「貞直」を授けられた。上人の一首「春秋もわからぬときわの山松はおのが千と せもしらでへぬらん」(碑面に刻む)】。 この説明書は誤植が多い。『石川理紀之助翁研究拾遺-遺蹟地は語る- 川上富三』128頁に「年七十四、其骨于此」、「春秋もわからぬときわの山松は、おのが千とせもしらでへぬらん」と記している。同著128頁に「蓮阿上人は明治三年八月二十日、年七十四才でこの世を去った。」とあるが、蓮阿上人は秋田人名大事典では明治三年八月二十四日卒である。 2016年2月13日の現地調査で、碑面はくずし字で「蓮阿 春秋も王可らぬ とき八能山松盤 おの可ちと世も し良天遍ぬらん」、碑の右側面は楷書で「明治三年八月二十四日卒 年七十四其骨于此」と判明。石川が蓮阿上人の正しい没年月日で分骨碑を刻されたことが証明された。于は「ここに」の意である。 椿窓庵(ちんそうあん)石川54歳の住居。石川自筆の【経済のこと葉 為石川三之助 明治31年10月18日】(個人蔵)と石川翁日記『克己 明治32年2月5日、同年8月2日』に記されている。 『石川理紀之助翁研究拾遺 川上富三著』の39頁では、後に可祝庵となる場所であっただろうと想定されている。 候庵(こうあん)現在の石川家墓所の傍らに建ててあった石川の住居。 明治32年2月8日、石川55歳、草木谷山居の五時庵から候庵に引越した。住所は秋田縣南秋田郡豊川村山田十二番地。 明治45年、石川68歳、元木実習場の小屋の一部を明治45年4月10日に候庵に移築したため、現存しない。 可祝庵(かしくあん)可祝庵跡前の案内板は、【可祝庵(かしゅくあん)の跡 「可祝(かしゅく)」とは「かしこ」で、手紙の最後に使うことば「敬具」・「敬白」と同意。一番高く、自分の田地がみわたされ、さらに墓地と本宅の中間に位置するこの土地に間口三間、奥行一間の庵を建て、その前に二間に二間半の古人堂を建てたのは明治三十三年である。候庵(こうあん、墓地の傍)からここに移り、晩年を過ごそうとしていた。】。案内板の可祝庵(かしゅくあん)のルビは誤植で、可祝庵(かしくあん)が正しい。 石川56歳、老後の住居として本宅と墓所の中間(現在の石川会館の場所)の桐木畑に建て、移り住んだ。住所は秋田縣南秋田郡豊川村山田四番地。明治32年7月29日に材木を買い入れ、候庵から可祝庵への引越日は明治33年1月28日。候庵は事務所として継続した。可祝庵の周りには、柿と梨とスグリと桃などの果樹を植えてあった。 備荒倉(びこうそう)備荒倉前の案内板は、【凶作、食糧不足に備えて玄米、籾(もみ)、麦、稗(ひえ)などをむして備えておいた石川家の倉。一日一合の米があれば、一人を救いうるとの古人の言葉に従って自らの食糧五合の中から一合あてよせて、たくわえたものである。】。 石川翁日記『克己』の初出は明治33年10月4日。備荒倉前の案内板では石川家の倉とされるが、大きさからして飢饉の時に飢人を救うための倉との兼用と考えられる(『石川理紀之助翁研究拾遺-遺蹟地は語る- 川上富三』)。 理紀之助が貯蔵した籾(もみ)約30石が現在も保管されている。 建てた年は不詳。備荒倉内部に下井川町の学校の教師をしていた大沼省三(号は三圭)が描いた【天明の飢饉】の大きな絵が掛けられている。当代の石川紀行は、大沼省三は【天保の飢饉】の絵も描いたとのこと。 梅廼舎(うめのや)梅廼舎前の案内板は、【翁の次男老之助が草木谷に建ててあった農舎。老之助の死後(明治三十六年死亡)ここに移し遺物語として老之助の木像を安置して孫の教育のよりどころとした。梅廼舎の号は、老之助の和歌「うれしくも 年の始めに梅さきぬ かめにやさん かざしにやせん」によって石川があとからつけたもの(明治三十五年勅題「新年梅」の詠進歌。陛下の午前に披講されている。)】。 明治35年1月18日に老之助が詠進した新年御題「梅」の和歌「うれしくも 年のはじめに 梅さきぬ かめにやささん かざしにやせん」が御前披講となった。 案内板の説明において、老之助の和歌「かめにやさん」は誤植で「かめにやささん」が正しい。山茶花(サザンカ)の掛詞と思われる。 石川59歳、明治36年9月4日に嗣子次男老之助が病死。明治36年11月7日に草木谷にあった老之助の農舎を本宅上の丘に移築し、老之助の和歌から採って梅廼舎と名付けた。 老之助の木像を安置し、老之助の農具や書籍も置き、孫たちの教育のよりどころとした。 尚庵(しょうあん)尚庵前の案内板は、【石川翁が晩年十年間生活した庵。(六十一才から七十一才まで) ①板の間・・・村童学習室、学習用の机・古新聞・農具等あり。②むしろの間・・・翁の常居、机・かさ・けら等あり。③畳の間・・・客間、ここが翁臨終の間である。聖賢に間に古人堂を祀っている。④物置 ※入口の板木は午前三時にたたいて村人を起こしたもの。この建物は、明治38年、翁六十一才の時に建てたものである。】。 明治38年1月16日61歳~亡くなる71歳までの晩年の10ヵ年を過ごした庵。 村の子供たちの学習室となった板の間、理紀之助の常居であったむしろの間、客間と石川の尊敬する聖賢たちをまつった畳の間、そして物置の四部屋からなっている。また、入口には、午前3時にたたいて村人を起こした板木がつるされている。 石川61歳、孫のために明治38年1月4日に可祝庵の移転に取りかかり、梅廼舎の向かいに移設して尚庵と名を改めた。 茶畠文庫(ちゃばたけぶんこ)茶畠文庫前の案内板は、【明治四十五年大久保村元木実習場(潟上市昭和大久保元木)の事業が終わり、その一部建物の払い下げを受けて建築した。主として秋田古文書類及び生前購読した諸雑誌類を保存していた。】。 石川66歳、明治44年4月17日に大久保にあった三間×六間位の小さな小屋を産米検査員養成の元木実習場とする。その小屋の一部を明治45年4月10日に候庵(現在の石川家墓所付近)に移築して木庵を建て雑誌と年報類を収蔵し元木庵と命名。石川翁日記『克己』明治45年5月18日に「茶畑文庫棚付け(原文のまま)」と書かれている。移築した現在の地は自家用の茶の木を栽培したところで茶畠といわれたため、茶畑文庫ではなく、茶畠文庫と称している。 茶畠文庫に秋田地方の古書類と購読した雑誌類を置き、住居の尚庵に愛読書を置き、古人堂文庫(トタン文庫)に大切な書籍を置いていたと考えられる。 二棟の右側=古人堂文庫(こじんどうぶんこ)古人堂文庫前の案内板は、【明治三十一年五月、草木谷草庵を全焼し、数千の蔵書が烏有に帰した。古人がその志を述べた幾多の書籍を失ったことを痛感した翁は火災につよいトタン張りの書庫を建てた。これが古人堂文庫である。明治三十四年この書庫を建てた時、石川翁は「このような書庫は秋田県では、はじめてであろう」と言っている。ここに蔵書をおさめ、毎年曝書(ばくしょ)をし蔵書目録と照合して大切に保存していた。】。 川上富三は『石川理紀之助翁研究拾遺-遺蹟地は語る-』で、古人堂文庫の建造を明治33年4月(145頁)、遺著文庫の建造を昭和17年(79頁)にしている。 筑波大学助教授の佐藤常雄は、『日本農書全集 第63巻』で、古人堂文庫と遺著文庫の二つの建造を明治34年(448頁)とした。しかしながら、古人堂文庫の建造は石川翁日記『克己 上』123頁から明治33年4月が正しい。 理紀之助は明治31年に草木谷の草庵を全焼して数千の蔵書を灰にしてしまった苦い体験から、1901年(明治34年) 4月に大金75円を投じて、火災に強いトタン張りの古人堂文庫を建造し、参考書籍1万冊を蔵した。昭和12年、この1万冊は完成した三井文庫に移動した。 移設前は、左側が古人堂文庫、右側が遺著文庫であった。 二棟の左側=遺書文庫(いしょぶんこ)川上富三は遺著文庫とするが石碑碑文に遺書文庫と刻されている。『石川翁写真帖 石川会本部発行 大正15年』写真9の解説から大正6年の建造である。石川理紀之助の18年間の遺筆の一切を保存し、合わせて門下生の筆録を蔵した。さらに、遺著文庫は第二次世界大戦の空襲による焼失を防ぐために利用された。 『図書館沿革誌 秋田県立図書館編 1961年』176項「6 図書疎開」に、【かねて連絡の上去る17年建設の南秋田郡山田の石川文庫に、貴重書を預かる事となり、昭和20年6月27日その疎開が行われた。石川文庫も収容に制限のある事であって、多くを望めなかった関係から左記図書のみ委託することとなったのである。秋田の落葉31冊、伊豆園茶話31冊、真澄遊覧記109冊、家蔵文書100冊、政影日記25冊、石川翁百歌集2帖、貴重函2函、弥高文庫4棚。終戦後の10月になって、これらの図書は無事本館に戻った。】。この記載において、石川文庫は遺書文庫、「石川翁百歌集」は「石川理紀之助百歌集」である。 これらの書物の現在の所蔵は、真崎勇助の「秋田の落葉」・戸部一(懃)斎の「伊豆園茶話」・「秋田藩家蔵文書」・「梅津政景日記」・「弥高文庫」は秋田県公文書館、「菅江真澄遊覧記」は秋田県立博物館、石川翁百歌集は秋田県立図書館である。貴重函2函は定かではない。 真崎勇助(1841年~1917年)は石川より4歳年上の郷土史家、考古資料の収集は約8,000点、菅江真澄の書籍を収集し価値づけた人物。真崎勇助と石川は交友。『石川理紀之助翁研究拾遺-遺蹟地は語る- 川上富三』の117頁に菅江真澄が古書を書き写した『房住山昔物語』を真崎勇助から借りて石川が『秋田のむかし(巻一)』(1898年)を編輯発行、また同書91頁に石川が真崎勇助から6種の本を購入したと記されている。石川翁日記『克己』に真崎勇助から明治31年9月3日借りて10月19日に返して書き写した記録がある。安藤和風の時雨庵文庫(秋田県立図書館所蔵)、東山太三郎の東山文庫(秋田県公文書館所蔵)、真崎勇助の真崎文庫(大館市立中央図書館蔵)は、秋田県の歴史と文化を学ぶ上で、貴重で、しかも多くの資料を提供することから県内三大文庫に数えられている。『秋田の先覚1 近代秋田をつちかった人びと 秋田県』(1968年)に、後藤逸女・石川理紀之助・真崎勇助の功績が記されている。 石川文庫(いしかわぶんこ)狭義には三井文庫、広義には遺跡地にある文庫(茶畠文庫・古人堂文庫・遺著文庫・三井文庫)の総称をいう。 三井文庫(みついぶんこ)三井文庫前の案内板は、【三ツ井文庫 石川翁の業績と思想、そして遺跡保存などの顕彰に献身している石川太朗(石川の孫)を中心する石川会の事業に感動した財閥三井報恩会が、資料散逸をおそれて建てた文庫と展示室。ここに約一万冊の蔵書と数千の遺稿、遺著が保存されていた。今日、石川の豊富な資料が残っているのは、この文庫が大きな役目を果たしたためである。内部に収蔵されていた蔵書、遺稿等は現在伝習館書庫に移されている。】。案内板の【三ツ井文庫】は誤植で、【三井文庫】が書くのが正しい。 川上富三は、『石川理紀之助翁研究拾遺-遺蹟地は語る-』で三井文庫の完成を昭和12年としている。 石川会を後援した財団法人三井報恩会(昭和9年4月設立)が資料の散逸を防ぐために建造した文庫と展示室。石川の読破した書籍1万冊、日記、歌稿、適産調や吉凶屏風、探針(さぐり杖)、旅行用具などの遺稿、遺品を保存していた。 石川会館(いしかわかいかん)石川会館前の案内板は、【石川翁没後、門人等が集まって、翁の精神の継承と顕彰に努めることを考え、石川会を組織し、その活動拠点としてこの会館を建てた。門人伊藤理一郎が自宅裏にあった青年研修のための建物を移したものである。会誌を発行し、映画をつくり、講習会を行い、遺稿の発行等の事業をこの会館で行った。】。 理紀之助の没後、大正9年に石川の精神の継承と事績の顕彰のために門人たちが石川会を組織する。その活動拠点として、飯田川町下虻川に集会と修練の場として大正11年に一心学館を建設。第12回石川会が一心学館で開催され、40名出席。青少年の講習会と夜学会に使用された。大正12年に移設、増築して石川会館と改称した。この会館で会誌の発行、講演会の開催、遺稿の刊行などが行われた。 石川家本宅(いしかわけほんたく)1847年(弘化4年)に建造されたが、石川は生涯を通してこの本宅を改造、増築などの手を加えることはなかった。 石川神社(いしかわじんじゃ)、堂林(どうりん)石川居村の中央部の小高い丘に建立された産土神(うぶすながみ)の八幡宮で、いつのころからか石川神社と称された。 1910年(明治43年)八幡神社の祭典に、山田の村民が理紀之助の木像を祠に納めた。末長く村を見守ってもうらう意味で、いわゆる生祀とは異なるものであった。 堂林は神社の裏手の杉林で、理紀之助が村の基本財産として植林したもの。 農業畊作会記念碑(のうぎょうこうさくかいきねんひ)農業畊作会記念碑は、石川はじめ創立者13名が全員逝去し、会員の子孫たちが農業耕作会の伝統を長く後世に残すために、農業耕作会の貯金の一部を記念碑の建造費にあてて1927年(昭和2年)9月に建造した記念碑である。 1867年(慶応3年8月15日)、23歳、前年の凶作で、次代の山田村を背負っていくという自覚をもって実践的活動を開始するため、山田村の長男たち12名と【農業耕作会】を結成。農業政策を実際に試みた最初の組織で、石川の13回忌の昭和2年に解散した。
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