文化保存
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1990年代半ば、寄席音曲師の柳家紫文と三味線が縁で知り合い、紫文はみな子の芸や知識の深さに惹かれた。「みな子さんが知る歴史や文化を後世に残さねば」と、その証言の書籍化を企画、自ら取材などを行い、これが自伝『華より花』の出版につながった。 2005年(平成17年)、女性の木遣(作業唄)を伝える目的で、女性芸人17人が落語家の古今亭志ん朝の遺志を継ぎ、住吉木遣り連「大江戸小粋組」を結成すると、みな子は稽古役を務め、一同の稽古に協力した。「男衆の木遣は、木をひきながら歌う労働歌。これに対し女木遣りは、客の気をひくお座敷芸。もっと粋に歯切れよく」が口癖であった。 同2005年夏、日本文学研究者の安原眞琴が、自身が専任講師を務める立教大学文学部の付属高校の授業で江戸文化を教えた際に、知人の紹介でみな子が講師に訪れ、みな子が「吉原芸者の最後の1人」と名乗ったことから、みな子と安原の親交が始まった。安原はこれを機に吉原の歴史の保存のため、みな子の活動の映像化に取り組み、その後の2010年までかけて取材を続けた。 平成期において国内一ともいわれるソープランド街となった吉原に、江戸伝統文化を取り戻す町おこしの一環として、2007年(平成19年)11月に木目調の街路灯16本が設置された際には、ただ1人残る吉原芸妓として、点灯式に参加した。
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