石川畳翠とは? わかりやすく解説

石川畳翠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/07 02:45 UTC 版)

石川 畳翠(いしかわ じょうすい、文化4年(1807年) - 天保12年6月15日(1841年8月1日))は、江戸時代後期の旗本・文人。3000石の大身旗本・東山石川家[注釈 1]の当主で、蔵書家として知られた[2]。晩年の曲亭馬琴との交流が深く、馬琴の「四友」の一人に挙げられる。通称は左金吾[2]、諱は総誼[2]。号は畳翠(あるいは畳翠軒[3][2])のほか、琴籟閑人[2]蟠松葊[2]麻谷外史[2]がある。

生涯

石川家は3000石の大身旗本で[3][2]、麻布古川町(三田古川町[注釈 2])に屋敷を構えた[3][2]。松の木を愛好する人物であったという[3]

殿村篠斎・小津桂窓・木村黙老(「三友」)と合わせて馬琴の「四友」と称され、このうちでは最も若い友人であった。かれらは馬琴の著作に対する批評を行っており、畳翠は『八犬伝畳翠君評』や『侠客伝桂松評』(『開巻驚奇侠客伝』に対する桂窓との批評)などを手掛けている。

天保6年(1835年)から7年(1836年)にかけて、馬琴は畳翠の招きに応じてその屋敷に赴いている[注釈 3]。天保7年(1836年)に刊行された『南総里見八犬伝』第九輯中套に漢文の序を寄せている(「琴籟閑人」名義)[5]

天保8年(1837年)には、馬琴が複製した『鎖国論』(ケンペル原著、志筑忠雄訳)写本の借覧を求めている[6]。『鎖国論』(1801年成立)は江戸時代後期に広く写本が行われたが[7]、馬琴は天保3年(1832年)に木村黙老(高松藩家老)から『鎖国論』の写本を借り、複製を作成していた(馬琴自身が書写したのではなく、職人を雇っている)[8][注釈 4]。実は畳翠の申し入れの半年前に、馬琴はパトロンでもあった松坂の小津桂窓に『鎖国論』を売却していたが[6]、馬琴は桂窓から『鎖国論』を借り[6]、畳翠に貸している。畳翠は写本を制作する心づもりであったが、写本製作を任せるつもりであった家臣が多忙であるなど条件が整わず、ほどなく馬琴に返却した[10]。馬琴は手元に『鎖国論』が戻ってきている際に写本を内密に作成した上で、桂窓に返却している[11]

天保12年(1841年)6月15日没[2]、38歳[2]。東山石川家代々の墓地である[1]下谷坂下の大久寺(明治時代に東京都北区田端に移転)に葬られた[2]

『南総里見八犬伝』の完結(天保13年(1842年))を見ることはできなかった。『南総里見八犬伝』「回外剰筆」において馬琴は「広き大江戸に、知音の友は地を払て、今は一人もあらずなりぬ」(友は篠斎・桂窓・黙老といった遠方の人ばかりになった)と嘆いている[12]

著作

  • 『松窓雑録』

脚注

注釈

  1. ^ 伊勢神戸藩石川総良の二男・大久保忠明を祖とする家[1]石川源氏の故地にあたる河内国石川郡東山村(大阪府南河内郡河南町東山)に陣屋を構えた。
  2. ^ 「麻布古川町」は、元禄11年に白金御殿建設用地として麻布村の土地が召し上げられた際、三田村の中の古川沿いに与えられた代地に付けられた町名。三田村の中にあった土地だが、その経緯のために麻布古川町と呼ばれたという(別に三田古川町もある)。明治2年に、従来の麻布古川町・三田古川町などは「三田古川町」に統合された。現在の南麻布1~2丁目の一部[4]
  3. ^ 播本眞一の(播本(2009), p. 7)。論文として「曲亭馬琴伝記小攷 : 曲亭馬琴旧蔵本『鎖国論』・石川畳翠旧蔵本『松窓雑録』について」『読本研究新集』第2集(2000年)にあたり、単著『八犬伝・馬琴研究』(新典社、2010年)に収録されている。
  4. ^ その後、馬琴が複製した『鎖国論』は、別系統の『鎖国論』写本を所蔵していた伊勢松坂の殿村篠斎に貸し出され、校合の上で馬琴に返却された[9]

出典

  1. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第百十九、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.725
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 畳翠軒蔵書”. 蔵書印データベース. 国文学研究資料館. 2021年12月26日閲覧。。原出典は「蔵書印集成解説」。
  3. ^ a b c d 関根只誠『名人忌辰録 上』(1894年)、p.5
  4. ^ 古川町(近世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2021年12月26日閲覧。
  5. ^ 『南総里見八犬伝』第九輯巻之七、六丁裏
  6. ^ a b c 大島明秀 2014, p. 30.
  7. ^ 大島明秀 2014, p. 22.
  8. ^ 大島明秀 2014, p. 23.
  9. ^ 大島明秀 2014, p. 29.
  10. ^ 大島明秀 2014, p. 32.
  11. ^ 大島明秀 2014, p. 33.
  12. ^ 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.337。

参考文献

外部リンク


石川畳翠(1807年 - 1841年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:08 UTC 版)

曲亭馬琴」の記事における「石川畳翠(1807年 - 1841年)」の解説

三千石取り旗本で、通称左金吾馬琴愛読者で、篠斎・窓・黙老とともに馬琴に「四友」と呼ばれた。これら「四友」たちは馬琴著書対す批評と、それに対す馬琴の答評を合わせた書籍出しており、石川畳翠も『八犬伝畳翠君評』などを手掛けている。『八犬伝完結前に死去し馬琴は「広き大江戸に、知音の友は地を払て、今は一人もあらずなりぬ」(友は篠斎・窓・黙老といった遠方の人ばかりになった)と嘆いている。

※この「石川畳翠(1807年 - 1841年)」の解説は、「曲亭馬琴」の解説の一部です。
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