石川理紀之助の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 21:31 UTC 版)
石川理紀之助は、1899年(明治32年)9月に房住山に登り、その記録を『坊城紀行』(『坊住山旧蹟実記』、『接待山紀行』)に記録している。それによると、小町水は小町の村に向かう三種川の橋の東の橋の下から湧き出ていて(現在は河岸工事のためコンクリートでかためられていて、清水は小町地区の飲用水源として使われている)、水桶一つが5分間でいっぱいになると書いている。長面三兄弟が逃げたとされる日高山とは、現在赤倉山(398m)として五城目町内川浅見内の東北東約5km、赤倉山荘という温泉施設の北約3.6kmの地形図にも記録されている山で、八面山とも言い、その山頂には権現堂が当時あったとし、更に山頂の北100mほどに鬼の穴という岩に囲まれた穴があったことを記録している。石川はその日高山にも登っている。その他、房住山周辺の地名が詳しく紹介している。石川は房住山登山の際に道を間違え雨に降られ、落合村についたときには日が落ち、自動車も使えずそこで一泊している。
※この「石川理紀之助の記録」の解説は、「房住山」の解説の一部です。
「石川理紀之助の記録」を含む「房住山」の記事については、「房住山」の概要を参照ください。
- 石川理紀之助の記録のページへのリンク