遺稿とは? わかりやすく解説

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い‐こう〔ヰカウ〕【遺稿】

読み方:いこう

死後残された未発表の原稿


遺稿

作者泉鏡花

収載図書鏡花全集24 小説
出版社岩波書店
刊行年月1988.8

収載図書泉鏡花黒壁文豪怪談傑作選
出版社筑摩書房
刊行年月2006.10
シリーズ名ちくま文庫


遺稿

作者芹沢光治良

収載図書芹沢光治良文学館 1 命ある日
出版社新潮社
刊行年月1995.10


遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 06:39 UTC 版)

小栗虫太郎」の記事における「遺稿」の解説

2016年度成蹊大学情報図書館草稿創作ノートなどを含む資料購入し、また小栗遺族より遺品書籍など資料寄贈受けた図書館では2017年11月13日から12月1日まで企画展小栗虫太郎 -PANDEMONIUM大魔城)の扉を開く-」を開催した

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 14:29 UTC 版)

戸田忠太夫」の記事における「遺稿」の解説

京都大学附属図書館には、維新資料として、忠太夫が藤田東湖会沢安、弟・安島帯刀とともに詩歌詠んで記したものが『東湖・忠敞・信立・会沢安遺墨』として現存している。

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 03:46 UTC 版)

太刀川平治」の記事における「遺稿」の解説

落葉集 太刀川平治遺稿』堀貞治[編]、太刀川眞治・私家版1967年

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:26 UTC 版)

古河潤吉」の記事における「遺稿」の解説

古河潤吉鉱業誌」 『開国五十年史下巻開国五十年史発行所1908年2月、485-518頁。全国書誌番号:.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:linear-gradient(transparent,transparent),url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}51009917。 編集作業途中で死去したため、未定稿のまま刊行された稿本鉱業』が筑波大学附属図書館所蔵されている。

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/08 02:11 UTC 版)

アルトゥル・シュニッツラー」の記事における「遺稿」の解説

シュニッツラーの遺稿は、1931年彼の死後大部分はウィーン自宅そのままにされ、学術的利用供されていた。しかし、1938年3月ナチス・ドイツによるオーストリア合邦直前に、これらの資料国外移されケンブリッジ大学図書館新たな保管先となった。1960年代のはじめ、ケンブリッジ大学シュニッツラーの遺稿は、息子であるハインリヒ・シュニッツラーの指示により、37ロール分のマイクロフィルム収められアメリカにある2つ研究機関カリフォルニア大学ロサンゼルス校およびニューヨーク州ビンガムトン国際アルトゥール・シュニッツラー研究会 (International Arthur Schnitzler Research Association, IASRA) 、およびドイツのアルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルクフライブルク大学)に移管された。フライブルク大学には、現在、シュニッツラー・アーカイブが整備されている。

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:36 UTC 版)

渋谷黎子」の記事における「遺稿」の解説

黎子が没した直後から、彼女の同志らにより「渋谷黎子追悼出版委員会」が発足し、遺稿の収集整理同志らへの追悼文依頼などの活動開始された。先述川崎大治小説家島木健作徳永直らの協力により、黎子の一周忌にあたる1935年昭和10年)に、ナウカから遺稿集出版企画された。しかし当時の情勢厳しく出版目前にナウカ弾圧遭ったことで出版叶わず、集められた原稿官憲目を逃れるために、南畑の定輔の実家屋根裏隠された1960年代以降詩人評論家松永伍一により、定輔の実家倉庫で、埃をかぶった状態の資料の束が発見された。一つは定輔の日記などの資料もう一つは黎子の遺稿集原稿であった。黎子のものの約3分の11972年昭和47年)、新人物往来社の『近代民衆記録』に収録された。 梅宮博の後、黎子の日と共に発見された定輔の日記が、1970年昭和45年)に生活記録集農民哀史』として刊行されたこと、および1974年昭和49年12月に定輔らの提唱で「小作争議50周年記念南畑歴史考え市民のつどい」が開催され、その準備参加した市民たちの中で黎子研究の機運高まったことなどが機となり、「渋谷黎子雑誌」の同人グループ結成された。同人メンバーは、富士見市内の作家主婦学生らで、いずれも定輔の活動と黎子の生涯などの研究を通じ女性生き方人間生き方歴史社会とのかかわり合い農民運動農業問題など様々なテーマ追求しようとする人々だった。そして『近代民衆記録収録契機となり、当時東洋大学講師である蒲池生らが遺稿をすべて活字化し、1974年12月に『渋谷黎子雑誌』の刊行開始された。一周忌当時企画され遺稿集の分載を中心とし、研究資料などが収録されており、蒲池紀生を中心とする20人の同人により、2年間にわたってほぼ季刊刊行された当初は富士見市の約20人の同人による刊行であったが、日本全国各地から参加者があり、読者全国広がった福島県郷土史家福島県立福島中央高等学校教員でもある梅宮博らも協力加わった。 『渋谷黎子雑誌』により、黎子の純粋な生き方共感する若い世代増え、それが原動力となったこと、および多くの協力者により関係資料調査報告、旧同志からの聞書きなどが加わったことで、『渋谷黎子雑誌』を土台とする形で1978年昭和53年)、家の光協会より遺稿集『この風の音聞かないか 愛と闘い記録』が出版された追悼出版委員会発足から44年後、実に約半世紀経て出版であった。 なお黎子が生前執筆した原稿は、大半官憲によって奪われていた。かろうじてプチ・ブル婦人科学的考察 - 窪川照屋両氏の『戦旗論文について』『プロレタリアートの道 - インテリゲンチァは如何に生くべきか』『農村婦人運動理論実際』など、いずれも百枚前後原稿が定輔の実家隠されていたものも、シロアリ食い荒らされ再現完全に不可能な態であった。追悼出版委員会による遺稿出版企画は、これらの原稿期待するのだったが、それが絶望的判明したことから、遺稿出版一度は断念された。しかし、まったく断念するには忍び難いことから計画再度練り直され日記を主にすることに改められた。そうした事情で『この風の音聞かないか』は、生前論文など遺失され、黎子が私的に書いていた日記と手紙大半を占める構成になっている1926年著した詩『悲しき揺籃 農村の子供のこと』は、黎子の唯一の小品として同書収録されている。なお『渋谷黎子雑誌』は原本旧仮名遣い掲載されているが、本書ではできるだけ多くの読者読まれるよう、当用漢字用いた現代仮名遣い表記改められている。 定輔は黎子の没後活動続け生前1975年昭和50年)には黎子の郷里である福島訪ね母校福島県立梁川高等学校訪れた。『この風の音聞かないか』出版後は、この書を直筆サイン入り同校寄贈した2011年平成23年)の東日本大震災により、この書は一度は図書室埋もれたものの、司書により発見され、その後校長室保管されている。 定輔の没後1994年平成6年)、富士見市富士見市立中図書館に「渋谷定輔文庫」が開設され、定輔の資料と共に結婚前の黎子と定輔の往復書簡や、遺稿集原稿などが収蔵された。 1995年平成7年)、『この風の音聞かないか』に感銘を受けた東京都稲城市作曲家日本大学芸術学部講師である佐藤勝麿が、黎子の詩、および京都市詩人の安ソノ子が黎子を思って作詞した紫蘇を摘む時」をもとに合唱曲作曲した地主の娘生まれた悩み葛藤経て農民運動飛び込んだ黎子の正直さ正義感思い描きながら作曲したという。

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/08/16 01:46 UTC 版)

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ホルシュタイン」の記事における「遺稿」の解説

ホルシュタイン生涯独身だった。帝国宰相カプリヴィ同じく彼はベルリン政治サロン女主人ヘレーネ・フォン・レビンと親しく付き合っていた。 ホルシュタイン自らの日記メモレビン託した彼女はそれを厳重に保管し亡くな少し前親しかった銀行家パウル・シュヴァーバッハに譲渡したこれらの遺稿は半世紀経った後、『フリードリヒ・フォン・ホルシュタインの秘密文書Die geheimen Papiere Friedrich von Holsteins )』という題名1956年から1963年にかけて公刊された。

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 06:00 UTC 版)

小池勇二郎」の記事における「遺稿」の解説

『漠空 小池勇二郎先生遺稿集』漠空会、1978年

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 23:59 UTC 版)

湯本文彦」の記事における「遺稿」の解説

鳥取藩史』編纂関係資料集 - 1958年昭和33年)孫上野恵から鳥取大学寄贈湯本文彦関係資料 - 1976年昭和51年桐生市湯本絹子から鳥取県立博物館寄託。『宇筆籙』『芳邨舎拙稿』等。 湯本文彦遺稿 - 京都市相国寺門前町上野家所。『宇文稿』『墨囚文稿』『依嘱稿叢』等。

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:35 UTC 版)

櫻井天壇」の記事における「遺稿」の解説

櫻井政隆遺稿』櫻井國隆[編]、會津八一[題字]、私家版1934年

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遺稿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 05:57 UTC 版)

和田稔」の記事における「遺稿」の解説

わだつみのこえ消えことなく 回天特攻隊員の手記』筑摩書房1967年7月10日。NDLJP:1673156。

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