本館
本館(初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 15:47 UTC 版)
初代宮崎県庁本館は、1873年1月15日に美々津県と都城県を合わせて宮崎県(初代)が設置された翌1874年に現在地(宮崎市橘通東2丁目10番1号)に建設された。 宮崎県庁の設置場所は当初宮崎郡下北方村(現在の宮崎市下北方町)と定められていたが、宮崎県側が上別府村への変更を申し入れ、これが認可された。県庁舎の完成までは上別府村役所を仮庁舎として使用した。権令(現在の知事にあたる)の福山健偉は「西洋建築」での建設を要望していたが、国から費用面などの問題で反対され、「楼閣付き唐破風(からはふ)」の木造建築となった。総工費は本庁舎のみで1万5,480円であった。 宮崎県が鹿児島県に併合されていた1876年当初は鹿児島県宮崎支庁として、1879年2月27日以降は宮崎郡・那珂郡の役所として使用された(1881年7月28日以降は児湯郡役所も併置)。 江戸時代の旧日向国内は諸藩(飫肥藩・延岡藩・高鍋藩・佐土原藩・薩摩藩・天領)が入り混じり、現在の宮崎市中心市街地(宮崎郡)はいわば辺境の地であった。このような場所に県庁が設置された理由としては「宮崎県の中央に位置していたこと」「諸藩の影響を受けにくい場所」であったことが挙げられている。 現在の宮崎市は宮崎県庁の設置を契機に発展しており、九州の県庁所在地では長崎市とともに城下町を由来としていない。
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本館(2代目)
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2代目(現在)の宮崎県庁本館は1932年10月に完成した。 1926年7月に郡制が廃止されたのに伴い県の事務が増大。人員も多く必要となったことから初代県庁舎は手狭となった。県庁舎の増改築は現実問題化し、同年12月6日に県議会は「県庁舎改築の件」を議決した。ところが同時期に大恐慌が発生。県庁舎改築は暗礁に乗り上げたかのようにみえたものの、1930年8月に知事に赴任した有吉実(有吉忠一の弟)が昭和6年度(1931年度)予算案の中で失業救済の一環として県庁舎改築を提案、これが議決され建設への道が開かれることとなった。なお、失業対策の一環として実施された他の事業としては5代目橘橋の建設、日向-椎葉間の県道(現国道327号)建設などがあった。 総工費は約72万円(2007年現在の価値に換算すると約30-50億円)。そのうち45万円は4つの電力会社(大淀川水力電気・球磨川電気・九州送電・九州水力電気)が「発電用ダム建設の代替条件」として寄付した。この寄付は1920年代前半の県外送電反対運動の結果によるものであった。 設計者は置塩章、建築様式はネオ・ゴシック建築、施工業者は大林組である。 2016年11月18日に文化庁の文化審議会は県庁舎本館・正門門柱・東門門柱の3か所で国の登録有形文化財を答申。2017年5月2日付で登録することを官報で発表された。
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本館(はりまの里海)
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「姫路市立水族館」の記事における「本館(はりまの里海)」の解説
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本館(第II期)
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「丸の内トラストシティ」の記事における「本館(第II期)」の解説
N館完成後、近隣オフィスで働く者の憩いの広場として運用していたが、敷地の南側部分に建築され、2006年2月14日着工、2008年12月10日竣工。この街区名称を、「MARUNOUCHI TRUST CITY(丸の内トラストシティ)」と命名し、2009年3月にグランドオープンした。 主なテナント 27~37F シャングリ・ラ ホテル 東京 2~26F オフィス 1~2F 店舗 地下駐車場 なお、本館とN館の間にガレリアが設置されている。
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本館(旧事務室)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:07 UTC 版)
ルネサンス様式で煉瓦造の2階建である。屋根は元々は桟瓦葺だったが後に銅板葺に変えられており、東西両端はマンサード屋根で各所に屋根窓が開けられている。中央部の1階部分は中庭へと抜ける通路となっており、通路を飾る半円状のアーチは白漆喰塗りで「CHATEAU D.KAMIYA」と書かれている。その上の2階部分では窓に2本のトスカナ式(英語版)の円柱が配置され、その上に小さな半円状アーチをのせたパラディアン・モチーフとなっている。柱とアーチ、その上のペディメントも白漆喰塗であり、ペディメントにはこて絵で「蜂印香竄葡萄酒」を示す蜂とブドウが描かれている。また、中央部の東隣にはクリーム色の漆喰が塗られた時計塔があり、各面に時計が設置されている。
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本館(1号館)
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1934年に竣工した鉄筋コンクリート造の大阪市立大学を象徴する建物である。旧制官立三商大の一つであった大阪商科大学時代に本館として建造された。モダニズム建築の特徴をよく表しており、国の登録有形文化財でもある。2019年現在でも教室や事務室として利用されている。
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本館(初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:35 UTC 版)
非現存。初代根津嘉一郎の家督を継いた2代目根津嘉一郎は、先代の古美術コレクションも継承し、1940年(昭和15年)に財団法人根津美術館を設立、根津嘉一郎邸を改装したうえで翌1941年(昭和16年)11月に当館を開館した。邸宅の母屋は美術館本館として利用されることとなった。
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本館(2代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:35 UTC 版)
非現存。戦禍を受けた旧本館を取り壊したうえで、1954年(昭和29年)9月に竣工・開館した。設計は今井兼次と内藤多仲による。1964年(昭和39年)9月に増築された。2006年(平成18年)5月8日から取り壊し工事に入り、美術館は新たな本館の開館まで休館することとなった。
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「本館」の例文・使い方・用例・文例
- 1895年に設立された大学の植物標本館は世界中の植物の標本を所蔵している。
- 別館は本館の北側にある。
- 本館は停車場まで車程五分以内の距離に在り
- 本館は海軍将校の愛顧を辱うしております
- 本館は婦人席の設けあり
- 本館には浴室の設けあり
- 本館を拡張した附属部分
- 本館の端に直角に増築された部分
- 本館に従属していたり離れたりしている建物
- 本館
- 日本館では,江戸時代の人々が水を節約して使うために発見した巧(たく)みな方法について学ぶことができる。
- 三井本館が80周年を祝う
- 6月15日に東京・日本橋にある三井本館が開館80周年を迎えた。
- 三井本館は高さが約31メートルある。
- 現在の三井本館は,古い建物が地震で激しく損傷した後に建てられた。
- 三井本館は国の重要文化財に指定されている。
- 日本館はドーム形の建物だ。
- サウジアラビアの祭典で日本館が人気
- 日本館は日本の伝統文化と現代文化の両方を特集している。
- そのうちの1つが,東京にある国立西洋美術館の本館だ。
本館と同じ種類の言葉
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