壺屋の入域
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 18:05 UTC 版)
戦後の那覇の解放と復興は、壺屋から始まった。 1945年、沖縄戦で、特に旧那覇市は米軍の圧倒的な攻撃にさらされ灰燼に帰したが、郊外の壺屋地区は比較的被害を逃れた。戦後も那覇は米軍の補給基地として占領状態にあったため、住民は立ち入りが禁じられ、住民は北部の民間人収容所に収容されていた。収容所を転々と移送され、鍋や皿すら事欠く生活で、米軍配給の空き缶を使う生活だったが、沖縄諮詢会商工部長の安谷屋正量が、米軍政府将校隊長のへンリー・H・ ローレンスに働きかけ、壺屋は「このように、業者さえ移住すれば直ぐ生産出来る状態にあるのだから、一日も早く陶器業者が移住できるように取計ってもらいたい」と懇願した。 当初、軍政府は住民が那覇に入ることを拒み、石川収容所(現うるま市)での製造を奨めた。それに対して石川では窯の構築に半年から1年かかる、壺屋では1か月で作れると約束。また野嵩収容所から軍の車両で通勤なら差し支えないという軍に、やちむん (やきもの) は焼きあがるまで徹夜しなければならないことを主張。区域から「越境」しないと保証出来るなら、移住させてもよいという許可を取り付けた。 1945年11月14日、各収容所から壺屋出身の職人や建築作業班が集められ、これら140名の先遣隊がまず壺屋に入域した。建築作業班には大城鎌吉一派 (大城組)が家屋や窯の修理を担当した。陶工の中には、城間康昌、小橋川仁王や小橋川永昌、のちに人間国宝となる金城次郎がいた。その年の12月、最初のやきものが焼かれた。また一か月で壺屋の人口は8,000人に増え、1946年1月3日に糸満地区管内壺屋区役所が設置された。こうして那覇の戦後の回復と発展は壺屋と壺屋焼から始まった。
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