シモバルの軍政府と民間人収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 04:57 UTC 版)
「泡瀬飛行場」の記事における「シモバルの軍政府と民間人収容所」の解説
米軍は泡瀬周辺を下原/シモバル (Shimobaru) と呼んでおり、1945年4月3日に泡瀬に到達した米軍は4月9日にはそこに米軍政府 (military government) の司令部を設置し、また民間人収容所「泡瀬キャンプ」(シモバル民間人収容所) を開設して次々と住民を送りこんだ。4月13日では住民数は3247人、9日後には6,200人となっていた。米軍が記録した4月~5月にかけての大量の「シモバル」の写真や映像は、この泡瀬のことである。 「 戦争直前、私は泡瀬に住んでいました。当時の泡瀬は、首里、那覇、泡瀬といわれていたとおり、大変にぎやかな町でした。砂糖樽(タルガー)生産の中心地で、与那原から中城、北中城、具志川、読谷、勝連村などから、人々がそれを求めて沢山やってきたものです。 」 —産業戦士(沖縄県史第9巻および10巻より) 泡瀬は干潟と塩田で栄えたまちであり、また大きく艦砲射撃や砲弾で破壊されるほどの被害を受けず米軍に接収され、既存の民家に収容者を何世帯も収容するというかたちであった。 「 泡瀬は島袋と同様に民間人の捕虜収容所になっていたのです。そこでは、大きな民家には四、五十人も詰め込まれて、牛小屋や山羊小屋にも収容されました。 」 —護衛つきの食糧捜し(沖縄県史第9巻および10巻より) しかし泡瀬飛行場建設のため、シモバルに収容された住民は5月15日から20日にかけてさらに徒歩で北側の現うるま市高江洲に移動させられた。またその後も米軍基地の拡大とともに住民は収容所は転々と移動させられた。人々が収容所から解放されたとき、泡瀬の土地の多くが米軍基地となっていた。 1972年時点での泡瀬通信施設 場所: 美里村、北中城村 面積: 約2,436,000㎡ 1967年、アメリカ空軍はOTHレーダーを設置した。これは大陸間弾道ミサイル(ICBM)の探知を目的としたものであった。 1974年、衆議院外務委員会でOTHレーダーの存在が明らかになり、問題となった。 1975年、米軍がOTHレーダーを撤去 1976年、OTHレーダー施設用地約1,014千㎡が返還された。 1983年、残りの施設部分1,861千㎡が返還され、返還後は区画整理が行われて都市開発がすすめられた。また奥武岬には沖縄県総合運動公園が整備され、1987年の海邦国体の主会場となった。 2013年時点での泡瀬通信施設 場所: 沖縄市(字泡瀬、字高原) 面積: 552,000㎡ 現在、泡瀬通信施設は中城湾に突き出す半島先端の0.552k㎡を海軍が使用しており、第7艦隊との通信などを行っている。 沖縄市は嘉手納弾薬庫や嘉手納基地を含む6施設の米軍基地によって東西南北の土地を圧迫されているため、桑江朝幸市長の時代に泡瀬干潟の埋め立てを含む東部海浜開発構想を策定した。泡瀬の浜の埋め立て計画は地元の保守派からも大きな反対の声が上がり、泡瀬通信施設の南側に人口島を造成する案となった。 「泡瀬干潟」を参照
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