ビルマルートとアメリカの中国政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 02:15 UTC 版)
「ビルマの戦い」の記事における「ビルマルートとアメリカの中国政策」の解説
日本と中国とは1937年に勃発した日中戦争の最中にあった。日本軍は沿岸部の主要都市を占領したが、中国の蔣介石政府は重慶へと後退し頑強に抗戦を続けていた。日中両国とも国際社会に対しては「これは戦争ではない」との立場をとったため、アメリカ政府は交戦国への軍需物資の輸出を禁止する「中立法」を発動しなかった。軍需物資の多くを輸入に頼っていた日本はこれにより恩恵を受けていたが、中国へのアメリカやイギリスからの援助も妨げることはできなかった。 蔣介石政府への軍需物資の輸送ルート(援蔣ルート)には以下があった。日本の参謀本部では1939年頃の各ルートの月間輸送量を次のように推定していた。 香港ほか中国沿岸からのルート(香港ルート):6,000トン ソ連から新疆を経るルート(西北ルート):500トン フランス領インドシナのハノイからのルート(仏印ルート):15,000トン ビルマのラングーンからのルート(ビルマルート):10,000トン ビルマルートとは、ラングーンの港からマンダレー経由でラシオ(現在のラーショー)までの鉄道路「ビルマ鉄道(en)」と、ラシオから山岳地帯を越えて雲南省昆明に至る自動車道路「ビルマ公路」とを接続した、全長2,300キロの軍需物資の輸送ルートの呼称である。蔣介石政府はトラックがどうにか通れるだけの山越えの道路を1938年7月に完成させていた。 1940年6月、ドイツ軍のパリ占領を機に、日本政府はイギリス政府に対して申し入れを行い、ビルマおよび香港を経由する蔣介石政府への物資輸送を閉鎖させた。さらに日本は9月の北部仏印進駐により仏印ルートをも遮断した。しかしビルマルートの閉鎖はアメリカの反発により3か月間にとどまった。再開されたビルマルートを遮断するため、日本軍航空部隊は雲南省内の怒江(サルウィン川の中国名)にかかる「恵通橋」と瀾滄江(メコン川上流部の中国名)にかかる「功果橋(現在、中国が建設した Gongguoqiao Dam がある)」を爆撃したが、橋を破壊するまでには至らなかった。 アメリカとしては、ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、蔣介石政府の戦争からの脱落を防ぎ、100万の日本軍支那派遣軍を中国大陸に釘付けにさせ、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻勢を行えないような状況を作ることが必要だった。蔣介石政府への軍事援助は、1941年3月以降は「レンドリース法」に基づいて行われるようになった。さらにアメリカは、志願兵という形を取って、クレア・リー・シェンノートが指揮する航空部隊「フライング・タイガース」をビルマへ進出させた。
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