北部仏印進駐とは? わかりやすく解説

北部仏印進駐

作者伊藤桂一

収載図書鎮南関めざして―北部仏印進駐戦
出版社光人社
刊行年月2003.10


北部仏印進駐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 14:37 UTC 版)

仏印進駐」の記事における「北部仏印進駐」の解説

1940年5月ドイツ軍フランス侵攻によりフランス劣勢になると、日本軍内ではフランス領インドシナ対する対応が検討され始めた6月15日には有田八郎外相陸海軍大臣フランス対す要求案を提出し17日には可決された。同日フランス領インドシナ政府武器弾薬燃料トラック輸出禁止する措置を行う旨を日本側に通告したが、日本側の対応はかえって激しいものとなった6月18日フランス領インドシナ政府対す要求案が決定された。 6月19日日本側はフランス領インドシナ政府対し仏印ルート閉鎖について24時間以内回答するよう要求した。カトルー総督は、シャルル・アルセーヌ=アンリフランス語版駐日フランス大使助言を受け、本国政府請訓せずに独断仏印ルート閉鎖と、日本側の軍事顧問団西原機関団長西原一策少将)の受け入れ行った。カトルーの受諾時間稼ぎ目的があり、アメリカから武器購入しようとした上でイギリス外相ハリファックス伯軍事的援助要請しているが、拒絶されている。 独仏休戦協定成立した6月22日に、ヴィシー政権はカトルーを解任した。カトルーの独断行動直接の原因だったが、自由フランスに近いことも忌避要因だった。後任総督フランス極東海軍司令官のジャン・デク―(フランス語版提督だった。しかしカトルーの行った日本との交渉撤回されず、日本松岡洋右外務大臣アルセーヌアンリ大使との間で日本フランス協力について協議開始された。8月末には交渉妥結し松岡アンリ協定締結された。この中で極東における日本フランス利益相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍進駐認め、さらにこれにフランス側可能な限り援助を行うこと、日本仏印との経済関係強化合意された。 大本営からは仏印監視団長西原に折衝調整一任されていた。進駐平和裏行われること前提であり、参謀本部第1部長富永恭次少将も、参謀本部命令交渉成り行き確認するため現地入りし、8月30日デク総督会談したが、デクーは「フランス政府協定署名したという報告聞いてない」として交渉開始拒否したその後日本軍進駐引き延ばし目論むデクーは「本国から訓令がきていない」などと理由をつけて交渉開始遅らせたフランス側誠意のない態度業を煮やした富永は、与えられていた現地第22軍指揮権発動して武力進駐準備を行わせた。これは、フランス側脅しをかけるためで、西原参謀本部次長沢田了承しており、陸軍大臣であった東條許可した9月3日富永デクーに対して佛印がこうも不思議な態度に出る以上、最早交渉余地はない」と最後通告突きつけると、フランス側折れて同日夕刻現地協定案を示してきた。フランス側の案は日本軍の行動領域使用できる飛行場などで、日本軍側の希望とは異なっていたが、富永西原は一旦このフランス案を受け入れこととし9月4日現地司令官アンリ・マルタンフランス語版将軍西原の間で西原マルタン協定調印された。 あとは進駐細目協議残されていたが、一旦は交渉妥結したものの、デクーマルタン未だに日本軍進駐引き延ばし画策していた。9月6日森本宅二中佐率い森本大隊部隊位置見失って不意に越境する事件発生すると、この事件故意のものでなく、また武力衝突に至らなかったに関わらずフランス側はこの事件進駐引き延ばし最大限利用しよう考えて現地司令官アンリ・マルタンフランス語版将軍西原に「本国政府回答あるまで現地交渉中止したい」と通告してきた。慌てた富永デク―と会見し、「協定知らない一部隊の行動をもってそのような措置とられるとすれば本国政府回訓によって交渉継続申し出られてもそれに応ずわけにはいかない」と通告すると、フランス側への不信感あらわにして東京帰ったその間フランスアメリカ本国イギリス領事館に使節団送って武器供与要請したり、日本輸送船武陽丸にフランス軍砲艦砲撃したりと挑発行為のようなこともあったので、現地入りした富永から詳細な報告受けた陸軍態度硬化し、平和進駐方針次第武力進駐へと傾いていく。9月14日進駐方針として「佛印印度支那進駐二伴フ陸海軍中央協定」の大命下ったが、この中協定は平和進駐原則としつつも、陸軍、特に富永参謀本部意思強く反映されて、フランス軍抵抗すれば政府指示を待つことなく武力進駐切り替えてよいと決められており、平和進駐武力進駐かは軍の裁量委ねられているも同然となった富永はこの大命をもって現地部隊作戦指導交渉の経緯確認のため再度現地入りした。一旦はフランス側態度姿勢硬化させていた西原であったが、引き続き平和進駐実現向けて司令官マルタン交渉続けていた。陸軍側の指揮しできない富永権限は、本来であれば陸海軍代表の西原には及ばないはずであったが、富永は、西原参謀総長職印押印した辞令提示し今次交渉期間は富永の命に従って行動し海軍には絶対に内密のこと」と命じた。しかし、この辞令正当な手続きによって発行されたかは不明であった富永現地統括する南支那方面軍赴くと、同軍参謀副長であった同じ東條英機一派佐藤賢了少将謀議し、軍司令官安藤利吉中将第5師団師団長中村明人中将集めて仏印進駐方針について申し渡しをしているが、その中で松岡アンリ協定定められ9月22日午前0時交渉期限独断半日縮めて9月21日午後12時までに交渉妥結しなかった場合日本側の提示条件修正加えてきたなら、これを拒絶見なすとし、わざわざ第5師団長の中村起立させて、出撃準備を行うように指示した富永東京を発つ際に昭和天皇から「交渉期限前に妥結した場合くれぐれも平和進駐をするよう」との指示があっていたが、この申し渡しの席で富永は、居並ぶ南支那方面軍高官らに「いかなる場合も平和進駐あり得ない」と話していたという。 9月17日富永西原フランス軍司令部訪問しマルタン面談仏印進駐する兵力を、前回西原マルタン協定決められた5,000規模から1個師団25,000人に増やし進駐する飛行場も3カ所から5カ所に増やすとする富永越権行為による独断での提示行ったマルタン富永条件提示難色示しその場では結論出せずに一旦持ち帰り回答は翌18日となったその内容飛行場進駐5カ所など一部受諾したものの、25,000人の進駐断固拒否など、富永条件とは大きな相違があったが、西原富永判断を仰ぐと無く陸軍中央協定内容打診参謀本部マルタン回答承諾し9月22日西原マルタン協定が再締結されたが、富永計画によって兵力増強され仏印進駐準備をしていた第5師団進撃開始6時間前の協定締結であった富永自分提示した条件通り協定締結とならなかったことに憤慨し西原参謀本部非難するような電文打電しているが、そのまま現地をあとにしたので、進撃直前第5師団に対して進撃中止指示を行うことはなかった。一方で現地軍である南支那方面軍も、富永からの申し渡しによって、既に準備進んでいる第5師団進撃開始止めようという意志はなく、参謀本部から「陸路進駐中止」との電文入ったが、正式な大本営陸軍部命令大陸命)ではないとして積極的な進撃中止動きをとらず、第5師団師団長中村西原からの「協定成立」の通報無視し9月23日未明進撃開始した師団主力ドンダン要塞進撃したが、フランス軍日本軍越境してきたら徹底抗戦するつもりであり、要塞司令官のクールーペー中佐発砲命じ要塞守備隊激しく抵抗したため、結局は武力進駐となってしまった。第5師団無断越境報告受けた参謀本部次長沢田深夜3時慌てて進撃停止大陸命出したが、既に激戦開始されており、現地軍の局地的交戦の自由は付与せざるを得ず第5師団はこの“局地”を拡大解釈しさらに進撃行った9月23日11時には要塞司令官のクールーペーと士官ジロー少佐以下多数戦死し残った兵士投降しドンダン要塞日本軍攻略された。第5師団順調な進撃聞いた南支那方面軍は、第5師団止めるどころか中村兵団行動深甚なる敬意を表す」などと称賛する電文打電し、「方面軍としては1度交戦した以上は、背進となるような命令絶対に避けフランス軍一撃加えねばならない思っていた」と停戦命令を出すことをしなかった。この後第5師団はメヌラ少将率い要衝ランソン占領した。ドクー総督は「日本軍戦ってはならぬ。それではインドシナ根こそぎ取られてしまう」と指令し9月25日停戦させた。その後ハノイなど重要拠点進駐した日本軍は、紅河以北にある仏印国内飛行場港湾利用権獲得し援蔣ルート中国への攻撃利用した一方でイギリス軍9月23日行ったフランス領西アフリカへの侵攻フランス軍撃退されている 富永自身がこの武力進駐直接指揮したわけではないが、西原マルタン協定結んで平穏に進めることもできた進駐に不満を抱き武力進駐煽るような行動をとったため、南支那方面軍第5師団独断越境をまねくこととなってしまった。こののち海路からも武力進駐進めたい現地陸軍と、事件不拡大方針海軍意見相違して対立することとなった富永9月25日には東京帰り報告のために参謀次長室を訪れたが、そこには次長沢田神田正種総務部長待ち構えており、沢田が「第一部長を辞めてもらう。君の仕事は僕がやる」と富永更迭言い渡した。この処分富永参謀飾緒を引きちぎって怒り露わにしたという。この富永更迭には、陸軍大臣東條意志はたらいていた。軍紀には厳格な東條は、中央の指示無視して武力進駐としたことを「統帥権越権」と見なして、目をかけている富永佐藤であっても厳格に処分するように指示している。現地でも富永らに煽られ実際に武力進駐指揮した軍司令官安藤師団長中村処分され予備役となった富永は一旦東軍司令部付の閑職回されたが、のちに安藤ら他の関係者同様に昇進復権機会与えられている。これは東條温情であり、このように硬軟使い分ける東條執務ぶりは陸軍内で傑出した存在認められ次の内閣総理大臣推薦にも繋がることとなった富永らによってせっかく平和裏進めていた仏印進駐武力進駐にされてしまった西原は、陸海軍次官阿南次長沢田宛てに『統帥レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文発している。

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