北部仏印進駐
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1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻によりフランスが劣勢になると、日本軍内ではフランス領インドシナに対する対応が検討され始めた。6月15日には有田八郎外相が陸海軍大臣にフランスに対する要求案を提出し、17日には可決された。同日、フランス領インドシナ政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を行う旨を日本側に通告したが、日本側の対応はかえって激しいものとなった。6月18日、フランス領インドシナ政府に対する要求案が決定された。 6月19日、日本側はフランス領インドシナ政府に対し、仏印ルートの閉鎖について24時間以内に回答するよう要求した。カトルー総督は、シャルル・アルセーヌ=アンリ(フランス語版)駐日フランス大使の助言を受け、本国政府に請訓せずに独断で仏印ルートの閉鎖と、日本側の軍事顧問団(西原機関、団長西原一策少将)の受け入れを行った。カトルーの受諾は時間稼ぎの目的があり、アメリカから武器を購入しようとした上で、イギリスの外相ハリファックス伯に軍事的援助を要請しているが、拒絶されている。 独仏休戦協定が成立した6月22日に、ヴィシー政権はカトルーを解任した。カトルーの独断行動が直接の原因だったが、自由フランスに近いことも忌避の要因だった。後任の総督はフランス極東海軍司令官のジャン・デク―(フランス語版)提督だった。しかしカトルーの行った日本との交渉は撤回されず、日本の松岡洋右外務大臣とアルセーヌ=アンリ大使との間で日本とフランスの協力について協議が開始された。8月末には交渉が妥結し、松岡・アンリ協定が締結された。この中では極東における日本とフランスの利益を相互に尊重すること、フランス領インドシナへの日本軍の進駐を認め、さらにこれにフランス側が可能な限りの援助を行うこと、日本と仏印との経済関係強化が合意された。 大本営からは仏印監視団長西原に折衝や調整が一任されていた。進駐は平和裏に行われることが前提であり、参謀本部第1部長富永恭次少将も、参謀本部の命令で交渉の成り行きを確認するため現地入りし、8月30日にデク―総督と会談したが、デクーは「フランス政府が協定に署名したという報告は聞いてない」として交渉開始を拒否した。その後も日本軍の進駐引き延ばしを目論むデクーは「本国から訓令がきていない」などと理由をつけて交渉開始を遅らせた。フランス側の誠意のない態度に業を煮やした富永は、与えられていた現地第22軍の指揮権を発動して、武力進駐の準備を行わせた。これは、フランス側に脅しをかけるためで、西原や参謀本部次長の沢田も了承しており、陸軍大臣であった東條も許可した。9月3日、富永はデクーに対して「佛印がこうも不思議な態度に出る以上、最早交渉の余地はない」と最後通告を突きつけると、フランス側が折れて、同日夕刻に現地協定案を示してきた。フランス側の案は日本軍の行動領域や使用できる飛行場などで、日本軍側の希望とは異なっていたが、富永と西原は一旦このフランス案を受け入れることとし、9月4日に現地司令官アンリ・マルタン(フランス語版)将軍と西原の間で西原・マルタン協定が調印された。 あとは進駐の細目の協議が残されていたが、一旦は交渉妥結したものの、デクーとマルタンは未だに日本軍進駐の引き延ばしを画策していた。9月6日に森本宅二中佐率いる森本大隊が部隊の位置を見失って不意に越境する事件が発生すると、この事件は故意のものでなく、また武力衝突に至らなかったにも関わらず、フランス側はこの事件を進駐の引き延ばしに最大限利用しようと考えて、現地司令官アンリ・マルタン(フランス語版)将軍が西原に「本国政府の回答あるまで現地交渉を中止したい」と通告してきた。慌てた富永はデク―と会見し、「協定を知らない一部隊の行動をもってそのような措置をとられるとすれば、本国政府の回訓によって交渉継続を申し出られてもそれに応ずるわけにはいかない」と通告すると、フランス側への不信感をあらわにして東京に帰った。 その間、フランスはアメリカ本国やイギリス領事館に使節団を送って武器供与を要請したり、日本の輸送船武陽丸にフランス軍の砲艦が砲撃したりと挑発行為のようなこともあったので、現地入りした富永から詳細な報告を受けた陸軍の態度は硬化し、平和進駐の方針が次第に武力進駐へと傾いていく。9月14日に進駐の方針として「佛印印度支那進駐二伴フ陸海軍中央協定」の大命が下ったが、この中央協定は平和進駐を原則としつつも、陸軍、特に富永ら参謀本部の意思が強く反映されて、フランス軍が抵抗すれば政府の指示を待つことなく武力進駐に切り替えてよいと決められており、平和進駐か武力進駐かは軍の裁量に委ねられているも同然となった。 富永はこの大命をもって現地部隊の作戦指導と交渉の経緯を確認のため再度現地入りした。一旦はフランス側の態度で姿勢を硬化させていた西原であったが、引き続き平和進駐実現に向けて司令官マルタンと交渉を続けていた。陸軍側の指揮しかできない富永の権限は、本来であれば陸海軍代表の西原には及ばないはずであったが、富永は、西原に参謀総長の職印を押印した辞令を提示し「今次交渉期間は富永の命に従って行動し海軍には絶対に内密のこと」と命じた。しかし、この辞令が正当な手続きによって発行されたかは不明であった。富永は現地を統括する南支那方面軍に赴くと、同軍参謀副長であった同じ東條英機一派の佐藤賢了少将と謀議し、軍司令官の安藤利吉中将や第5師団師団長中村明人中将を集めて仏印進駐の方針について申し渡しをしているが、その中では松岡・アンリ協定で定められた9月22日午前0時の交渉期限を独断で半日縮めて、9月21日の午後12時までに交渉が妥結しなかった場合や日本側の提示条件に修正を加えてきたなら、これを拒絶と見なすとし、わざわざ第5師団長の中村を起立させて、出撃準備を行うように指示した。富永は東京を発つ際に昭和天皇から「交渉が期限前に妥結した場合はくれぐれも平和進駐をするよう」との指示があっていたが、この申し渡しの席で富永は、居並ぶ南支那方面軍の高官らに「いかなる場合も平和進駐はあり得ない」と話していたという。 9月17日、富永は西原とフランス軍司令部を訪問しマルタンと面談、仏印に進駐する兵力を、前回の西原・マルタン協定で決められた5,000人規模から1個師団の25,000人に増やし、進駐する飛行場も3カ所から5カ所に増やすとする富永の越権行為による独断での提示を行った。マルタンは富永の条件提示に難色を示し、その場では結論を出せずに一旦持ち帰り、回答は翌18日となった。その内容は飛行場の進駐5カ所など一部は受諾したものの、25,000人の進駐は断固拒否など、富永の条件とは大きな相違があったが、西原は富永に判断を仰ぐこと無く、陸軍中央に協定内容を打診、参謀本部はマルタンの回答を承諾し、9月22日に西原・マルタン協定が再締結されたが、富永の計画によって兵力増強され仏印進駐の準備をしていた第5師団の進撃開始6時間前の協定締結であった。 富永は自分が提示した条件通りの協定締結とならなかったことに憤慨し、西原と参謀本部を非難するような電文を打電しているが、そのまま現地をあとにしたので、進撃直前の第5師団に対して進撃中止の指示を行うことはなかった。一方で、現地軍である南支那方面軍も、富永からの申し渡しによって、既に準備が進んでいる第5師団の進撃開始を止めようという意志はなく、参謀本部から「陸路進駐中止」との電文が入ったが、正式な大本営陸軍部命令(大陸命)ではないとして、積極的な進撃中止の動きをとらず、第5師団師団長中村も西原からの「協定成立」の通報を無視し9月23日の未明に進撃を開始した。師団主力はドンダン要塞に進撃したが、フランス軍も日本軍が越境してきたら徹底抗戦するつもりであり、要塞司令官のクールーペー中佐は発砲を命じ、要塞守備隊は激しく抵抗したため、結局は武力進駐となってしまった。第5師団の無断越境の報告を受けた参謀本部次長沢田は深夜3時に慌てて進撃停止の大陸命を出したが、既に激戦が開始されており、現地軍の局地的交戦の自由は付与せざるを得ず、第5師団はこの“局地”を拡大解釈しさらに進撃を行った。9月23日の11時には要塞司令官のクールーペーと士官のジロー少佐以下多数が戦死し、残った兵士は投降してドンダン要塞は日本軍に攻略された。第5師団の順調な進撃を聞いた南支那方面軍は、第5師団を止めるどころか「中村兵団の行動に深甚なる敬意を表す」などと称賛する電文を打電し、「方面軍としては1度交戦した以上は、背進となるような命令は絶対に避け、フランス軍に一撃を加えねばならないと思っていた」と停戦命令を出すことをしなかった。この後、第5師団はメヌラ少将率いる要衝ランソンも占領した。ドクー総督は「日本軍と戦ってはならぬ。それではインドシナを根こそぎ取られてしまう」と指令して9月25日に停戦させた。その後ハノイなど重要拠点に進駐した日本軍は、紅河以北にある仏印国内の飛行場や港湾の利用権を獲得し、援蔣ルートや中国への攻撃に利用した。一方で、イギリス軍が9月23日に行ったフランス領西アフリカへの侵攻はフランス軍に撃退されている 富永自身がこの武力進駐を直接指揮したわけではないが、西原とマルタンが協定を結んで平穏に進めることもできた進駐に不満を抱き、武力進駐を煽るような行動をとったため、南支那方面軍や第5師団の独断越境をまねくこととなってしまった。こののち、海路からも武力進駐を進めたい現地の陸軍と、事件不拡大方針の海軍の意見が相違して対立することとなった。富永は9月25日には東京に帰り、報告のために参謀次長室を訪れたが、そこには次長の沢田と神田正種総務部長が待ち構えており、沢田が「第一部長を辞めてもらう。君の仕事は僕がやる」と富永の更迭を言い渡した。この処分に富永は参謀飾緒を引きちぎって怒りを露わにしたという。この富永の更迭には、陸軍大臣東條の意志がはたらいていた。軍紀には厳格な東條は、中央の指示を無視して武力進駐としたことを「統帥権越権」と見なして、目をかけている富永や佐藤であっても厳格に処分するように指示している。現地でも富永らに煽られて実際に武力進駐を指揮した軍司令官の安藤や師団長の中村も処分されて予備役となった。富永は一旦東部軍司令部付の閑職に回されたが、のちに安藤ら他の関係者と同様に昇進と復権の機会を与えられている。これは東條の温情であり、このように硬軟使い分ける東條の執務ぶりは陸軍内で傑出した存在と認められ、次の内閣総理大臣推薦にも繋がることとなった。富永らによってせっかく平和裏に進めていた仏印進駐を武力進駐にされてしまった西原は、陸海軍次官阿南と次長沢田宛てに『統帥乱レテ信ヲ中外ニ失ウ』の電文を発している。
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