北部北九州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 08:08 UTC 版)
早期に玄界灘沿岸ではじまった水稲農耕は、朝鮮半島に系譜を求められるものであるが、水稲農耕に関する文化複合体のすべてがみられるわけではない。例えば、煮沸用土器は玄界灘沿岸の突帯文土器を使用している事からも解る。 突帯文土器は縄文土器に伝統的な製作技法で作られている。その中に無文土器の製作技法で作られた甕が数%存在する。無文土器的な煮沸用土器も準備されていたことを予想させる。 腹径の2/3以上のものを甕と呼び、2/3未満のものを壺 こうして出来あがった土器が板付Ⅰ式土器である。無文土器の製作技法を選択的に採用して作られ、外見や文様はもはや無文土器とは似て非なる土器になっていて、実用的な部分は無文土器の技術で、非実用的な部分には在来の伝統がうまく使い分けられている。 さらに、早期のうちに九州から近畿にかけての広い地域に水稲農耕は伝わるが、玄界灘沿岸ですべてそろっていた弥生文化の要素は、九州以外の地域では部分的にしかみられない。この様に、北九州でも、それが広がった西日本でも、大陸系磨製石器や農耕の土器のセットが完全でないところに早期水稲農耕伝播の実態がある。
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北部北九州
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水稲農耕の情報が縄文時代から機能していた情報ネットワークにのって伝播した可能性がある。森貞次郎のいう縄文的稲作農耕の伝播である〔森,1982〕。 もう一つは、受け入れ側の強い規制が存在し稲作は受け入れても技術や道具、思想などは厳しい選択がおこなわれた可能性である。稲作を中心とする弥生文化に対する縄文側の自己防衛がすさまじかった 土偶や高い比率の浅鉢は、縄文的な道具をもちい縄文祭祀を活発におこなうことによって自らの集団の精神的な紐帯を高め引き締めてアイデンティティの確認がおこなわれたことを意味している。
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