北部同盟対ターリバーン
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「アフガニスタン・イスラム国」の記事における「北部同盟対ターリバーン」の解説
詳細は「アフガニスタン内戦 (1996年-2001年)(英語版)」および「北部同盟 (アフガニスタン)」を参照 首都を追われたラッバーニー政府はウズベク人軍人ラシッド・ドスタム、タジク人の指導者アフマド・シャー・マスード、カリーム・ハリーリー率いるシーア派のヘズベ・ワフダート(ハザーラ人を主体としている)と大同盟を結成した。同盟の目的はアフガニスタンをターリバーンから取り戻すことで、正式名称は「アフガニスタン救国・民族イスラム統一戦線」だったが、西半球では北部同盟として知られた。アフガニスタン・イスラム国は国際連合で承認されるアフガニスタン代表に留まった。 北部同盟は1997年5月末までに一連の戦略的勝利を収め、ターリバーンの攻勢が止まった。国際からの圧力により北部同盟とターリバーンは交渉を開始したが、両派とも過大な要求を出したため和解は不可能であり、交渉が膠着した。1997年の国連報告によると、アフガニスタンでは地雷による死傷が頻発し、乳児死亡率が25%に上り、反乱諸派による経済封鎖が飢餓を引き起こし、人道主義組織も救援活動を満足に行えなかった。また1998年2月アフガニスタン地震(英語版)が北東部でおき、4,500人が死亡した。 1998年の前半には交渉で平和合意が締結されると思われたが、北部同盟が崩壊してしまった。ターリバーンは機に乗じて攻勢を開始、州都のマイーマナ(英語版)、シェベルガーン、マザーリシャリーフ(1998年8月8日、マザーリシャリーフの戦い (1997年-1998年)(英語版)も参照)を続けざまに占領した。ターリバーンはマザーリシャリーフのシーア派市民を虐殺、さらにイランのジャーナリストや外交官8人を殺害した(アフガニスタン国内のイラン外交官殺害事件(英語版))。この行動は国際の批判を受け、ターリバーン政権とイランが戦争寸前の状態に陥った。 2001年、アメリカ同時多発テロ事件によりアメリカ合衆国と北大西洋条約機構が参戦してターリバーン政府の転覆に成功、アフガニスタン・イスラム共和国が建国された。これによりアフガニスタン暫定行政機構(英語版)が成立した。
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