マザーリシャリーフの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 10:23 UTC 版)
「アブドゥル・マリク」の記事における「マザーリシャリーフの戦い」の解説
詳細は「マザーリシャリーフの戦い(英語版)」を参照 1997年5月19日、弟のゴリと共に、ドーストムの退陣を要求し、ターリバーンに対して戦線を開放した。その結果、5月25日にターリバーンは、マザーリシャリーフに入城した。5月27日、交渉が妥結しなかったため、アブドゥルは、ハザーラ人部隊と共にターリバーンに対して戦闘行動を再開した。5月27日〜28日の間、約3千人のターリバーン部隊は撃滅され、外相ガウス師、航空相マンスール師等が捕虜となった。大部分の捕虜は、マリクの命令により銃殺された。 1997年5月29日、自らをイスラム民族運動の党首と宣言した。ドスタムが国外に逃亡したため、1997年5月〜8月の間、マリクは、事実上、アフガニスタン北部のウズベク人の指導者となった。 1997年8月〜9月、ドスタムがマザーリシャリーフに戻ると、マリクの甥(弟ゴリの息子)がドスタムの娘と結婚し、ドスタムの息子がゴリの娘と結婚するという政略結婚で和解した。 1997年9月、ターリバーンの新期攻勢により戦線が崩壊したため、マザーリシャリーフをハザーラ人部隊に委ね、シベルガン市地区に撤退した。 1998年秋、ウズベク人部隊の壊滅後、アフガニスタンを離れる。
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