日本軍進駐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 06:43 UTC 版)
「日本とパプアニューギニアの関係」の記事における「日本軍進駐」の解説
太平洋戦争における、ニューギニア島とそれに付随するニューブリテン島、ニューアイルランド島、ブーゲンビル島などで展開された枢軸国(大日本帝国)と連合国(主にアメリカ)の戦闘は総じて「ニューギニアの戦い」と呼ばれ、激戦地の一つとなった。 一連の戦いの幕開けとなったのは「ラバウルの戦い」である。ラバウルのあるニューブリテン島は大日本帝国軍基地のあるカロリン諸島から近く、連合国はここを起点に巻き返しを図ることが予測されていたため、ニューブリテン島は当時の戦略上の要地であった。また同時に、ニューアイルランド島のカビエンも重要地であった。そのため両都市は1942年1月20日から23日にかけて日本軍の攻勢に遭い、オーストラリア軍は抵抗虚しく降伏、ラバウルは日本軍の軍事要塞と化した。この日本軍によるラバウル占領を受けてアメリカ軍はラバウル奪還のため攻勢を仕掛け「ニューギニア沖海戦」が行われるも、両者損害を負うだけで終わっている。 1942年3月8日、日本軍は連合国の拠点であるポートモレスビー攻略に向けてニューギニア島のサラモアとラエに進出、アメリカ軍がそれを空爆する(「ラエ・サラモアへの空襲」)。その後、ポートモレスビーを巡っては1942年5月上旬に海からの攻略を目指す「珊瑚海海戦」、陸地からの攻略を目指す「ポートモレスビー作戦」、オーストラリア軍の飛行場があるラビでの「ラビの戦い」、1942年末に「ブナ・ゴナの戦い」が繰り広げられ、瞬く間にニューギニア島全域が激戦地となっていった。 翌1943年になると「ビスマルク海海戦」で日本は悲劇的な敗北を喫し重機などの補給物資を失う。これを機に、日本は次第に補給不足に悩まされ始める。その後、ガダルカナル島の戦いに勝利した連合軍は本格的な反攻に転じて「カートホイール作戦」が展開され補給路を断つ戦略が取られるようになり、続く「ラエ・サラモアの戦い」や「フィンシュハーフェンの戦い」、「ラム河谷の戦い(英語版)」、「ニューブリテン島の戦い」などで日本軍は敗走を続け、「アドミラルティ諸島の戦い」で日本軍は補給路を断たれ孤立。飢餓やマラリアに悩まされ、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」と称される悲惨な状況を呈した。また同時期には、転進を命じられた日本軍第51師団が「サラワケット越え」と呼ばれる山越えを強行し、多くの凍死者・病死者を出した。 1944年になると、補給不足を解消するため竹一船団と呼ばれる護送船団がニューギニア島に派遣されるも、途中で失敗。補給不足は解消されないまま、1944年4月下旬には「ホーランジアの戦い」、1944年5月から8月にかけては「ビアク島の戦い」、1944年6月にはビアク島の日本軍を支援する為の「渾作戦」、1944年7月には「アイタペの戦い」とニューギニア島における最後の戦いである「サンサポールの戦い」が繰り広げられ、日本はニューギニア島を喪失した。 なお、連合軍は最後までニューブリテン島東北部のラバウルを武力で奪回できず、ラバウルに拠る日本軍第8方面軍は今村均大将の指揮下で約7万人の兵力を残したまま終戦を迎えた。
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