日本軍逆上陸
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ペリリュー島にアメリカ軍が上陸したとの報告があったのち、パラオの第14師団司令部では連日逆上陸について議論が行われていた。歩兵第15連隊は当初から、逆上陸を想定した海上機動部隊に指定されており、その訓練も積んできたので、連隊長の福井義介大佐は計画通りの逆上陸を意見具申し「軍旗を先頭に連隊主力が逆上陸すれば、米軍を撃滅することも可能です。ましてや、我が連隊の第3大隊が奮戦している今日、連隊主力がおめおめとパラオに安住してはおれません。速やかに増援出撃させて下さい」と師団長の井上貞衛中将に迫った。しかし、師団参謀長の多田督大佐が「1個連隊を増援輸送するだけの舟艇が足りない、それに制空・制海権はまったく敵の手にあり、海上機動の可能性も疑問に思う。米軍がペリリュー上陸に引き続いて、パラオ本島に進攻してくる可能性も大きい」と反対意見を述べた、多田は「切れることカミソリのごとし」と評されている有能な参謀で、その判断は合理的であったが、部下将兵が苦闘しているなかで、連隊長の福井が連隊主力をもって救援したいという気持ちもよくわかり、また、逆上陸作戦成功の可能性も全くないとは思われないので、師団長の井上は判断をすることができず、時間だけが刻々と過ぎていった。 師団司令部が方針を決めきれない中、9月18日に現地の中川から、蟻の這い出る隙間もない激しい警戒態勢のなかで逆上陸を敢行することは、火中に飛び込むようなものであり「我が歩兵第2連隊だけで十分であり、ペリリューに兵力をつぎ込んでも無駄である。」という増援拒否の電文が送られてきた。この中川の電文により、一旦は逆上陸断念という方針に傾いたが、第15連隊長の福井は部下将兵救援のため、なおも逆上陸を激しく主張し続けた。しかし、18日の時点で、第15連隊第3大隊の残存部隊は、島南部でアメリカ軍の第7海兵連隊に追い詰められて、爆薬を抱いて戦車に突入するなど勇戦敢闘しつつも、最後は断崖から身を投じる兵士もいるなど、一兵残らず戦死していたが、それを福井が知るよしもなかった。 ペリリューの戦況は悲観的なものではあったが、守備隊は勇戦敢闘を続けており、上陸して1週間経ってもアメリカ軍の進撃ぶりは遅遅としたものであった。また、前線の中川から送られてくる戦況報告は「米軍はわがペリリュー守備隊の勇戦により、疲労困憊し、ことに砲爆弾の欠乏に悩んでいるのは確実であり、もっぱら、新戦力の来着を待っている模様なり」「米軍の戦意もようやく衰え、戦車もわが軍の肉攻に恐怖し、退避につとめている」などと活気に満ちたものであった。この戦況報告を聞いた司令部で、再び逆上陸実施の機運が高まり、参謀長多田の反対意見も次第に力を失ってゆき、アメリカ軍上陸1週間後の9月22日に、師団長井上は「米軍は我がペリリュー守備隊の勇戦にて疲労困憊し、ことに砲爆弾の欠乏に悩んでいることは確実であり、もっぱら新鋭戦力の来着を待っている。今やペリリューはあと一押しで米軍を完全に敗退に導き、これを陸岸から駆逐することも可能である。」と判断を下して増援を送ることと決定した。しかし、師団司令部としてもパラオにアメリカ軍のさらなる侵攻が予想される中で、ペリリューに大兵力を注ぎこむことは避けたいとの判断もあり、最終的には歩兵第15連隊全部ではなく、第2大隊(指揮官飯田義榮少佐)にペリリュー島に逆上陸することを命じた。飯田は茨城県出身で、第2連隊は古巣であり、その古巣を救援したいと意気軒昂であって、飯田の意気に触発された大隊の兵士も「上州男児の底力を見せてやるぞ」と意気盛んであった。 同日夜22時には第一陣として第2大隊第5中隊(指揮官村堀中尉)215名が大発動艇5隻に分乗し、パラオ本島アルミズ桟橋より出発した。途中でアメリカ軍艦艇に発見されるもうまく回避し、7時間かけてペリリュー島北端のガルコル波止場に到達、揚陸作業中にアメリカ軍機の空襲を受け大発動艇は全て撃沈されたが、人的損害は死傷14名に止まり、残りの兵員はペリリュー守備隊に合流した。先遣隊村堀隊の上陸成功の報に師団司令部は湧き立ち、「援軍は不要」と打電していた中川大佐も非常に感激し、苦闘する守備隊の士気も大いに高まった。師団司令部は次いで翌23日に第2大隊主力の出撃を命じた。第二陣の主力は総兵員570名で飯田が直卒し5隻の大発動艇に分乗した。大隊が配備している九四式山砲2門、四一式山砲4門も全て大発動艇に積み込んだ。そして、海軍の水先案内となる小発動艇に付いて夜の20時にペリリューに向けて出発することとなった。この20時というのは、これまでの猛訓練により確認していた、潮の干満が最も海上機動に適した時間であったが、一部部隊が出撃準備に手間取り、出発が30分ずれて20時30分となってしまった。 遅れた30分の間に潮は退き始めており、飯田は不安を抱きながらも、上陸に成功した第5中隊が進んだ航路と同じ航路を突き進んだ。既に潮が退いてるため、水路は大発がようやく通れるほどの幅と深さしかなく、海軍の小発動艇を先頭にして各艇は、完全無灯火のなかを慌ただしく舵を切って進んでいたが、ついに小発動艇がガラカシュール島周辺のリーフに乗り上げてしまい、それに続いていた飯田率いる大発動艇5隻も座礁してしまった。この水路は、第15連隊が連日の海上機動の猛訓練を重ね、航行困難箇所は一部のリーフを爆破して水路を作るなどして熟知していたが、海軍はそれほどこの水路には習熟していなかったので、飯田は海軍の先導は不要であったと後悔したが後の祭りであった。飯田は完全に座礁して身動きが取れなくなった大発動艇を諦めると、それぞれ装備を担いで徒渉での上陸を命じた。しかし、アメリカ軍は第5中隊の上陸成功で、日本軍の増援を警戒しており、ほどなく沖合で警戒していた駆逐艦に徒渉していた日本軍は発見されて、激しい艦砲射撃を浴びせられた。砲弾は、装備を運びだそうと兵士が作業していた大発動艇に直撃、作業中の日本兵とともに粉砕され、逃げ惑う日本兵の真ん中にも砲弾が着弾し、多数の日本兵が死傷した。駆逐艦が打ち上げる照明弾により周囲が照らされ、艦砲射撃に加えて機銃掃射も浴びせられる中で、飯田らは2km先のペリリュー島に向けて必死に進んだ。そのうち潮が満ちてきたため、座礁した大発動艇のうち2隻が脱出に成功し、こちらもペリリュー島を目指して全速航行した。 徒渉でペリリュー島を目指した飯田らはようやく陸地に上陸したが、周りの様子が何か違うのでよく調べるとこれはペリリュー島の北側400mにあるガドブス島であった。飯田は小休止をとる間もなく、続いてきた将兵らにペリリュー島への移動を命じたが、その人数は砲兵中隊の奈良四郎少尉以下20数人に過ぎなかった。しかし、夜が明けて空が白み始めると、他にもペリリュー島に向かって進んでいる日本兵が望見された。飯田らは翌23日の早朝にやっとの思いでペリリュー島のガルコル埠頭に上陸したが、先に2隻の大発動艇が到着しており、その中から九四式山砲2門が陸揚げされた。どれだけの兵士が生き残って上陸したかを把握できないまま、部隊は北上を開始したが、やがてアメリカ軍のアムタンクで編成されたパトロール隊が、道路上を主砲を乱射しながら進んできた。アメリカ軍は日本軍の逆上陸部隊が歩兵のみと侮って装甲の薄いアムタンクを向かわせたようであったが、奈良はすばやく山砲を林の中に引き込むと、これまで一方的に攻撃され、戦力を発揮することもできず無為に戦死していった戦友たちの無念を晴らすべく、アムタンクに砲撃を開始した。山砲の貫通能力は低いが、相手のアムタンクの装甲も薄く、また、巧みに林に山砲を隠したので、アムタンクを十分に引きつけ零距離射撃できたため、次々と砲弾は命中した。車体側面に命中弾を受けたアムタンクはとたんに砲塔が吹き飛び爆発炎上した。奈良が指揮する山砲は持ってきた砲弾全弾を撃ちつくし、8輛のアムタンクを撃破炎上させるという大戦果を挙げた。しかし、大損害を被ったアメリカ軍の反撃は激烈で、今までの駆逐艦に加えて、巡洋艦も沖合に姿を現して20cm主砲で猛然と艦砲射撃してきた。巡洋艦の20cm砲弾の威力はすさまじく、たちまち山砲は撃破されて、砲弾が直撃しなくとも兵士は強烈な爆風を浴びて、全身が紫色に腫れ上がり、裂傷もないのに全身の皮膚から血が噴き出してくるといった具合で、どうにか上陸できた日本兵は次々と倒れていった。飯田率いる第2大隊は、第2連隊に合流する前に壊滅状態に陥り、飯田は埠頭近くの洞窟に立てこもって様子をうかがうこととしたが、アメリカ軍の警戒が厳しく前進することはできず、夜になると少数の将兵でアメリカ軍の陣地を夜襲して、食料などの物資を奪取するといったゲリラ戦を展開していたが、9月28日には飯田が掌握している将兵は100名足らずとなっていた。 飯田も中川と同様にペリリューへの増援は無駄な戦力消耗にしか過ぎないと判断し、戦況報告と意見具申をする必要があったが、無線はなく連絡手段が無いため、誰か伝令を警戒厳重な海を泳いで渡らせてパラオまで報告書を届けさせる必要があった。ペリリューからパラオ本島までは60kmもあり、泳ぎが達者で精神力も強い奈良以下17名が選出された。17名もの大勢の人数が選ばれたのは、非常に困難な任務であり、17名の内1人はたどり着けるだろうという最悪な状況を想定してからのことであった。9月28日にペリリューを出た奈良少尉は、部下を励ましながら潮流が強く波が高い海を不眠不休で懸命に泳いだが、途中で執拗なアメリカ軍機の機銃掃射を受け12名が戦死し残りは5名となった。途中の島で休息しながら10月2日にパラオ本島に到着した際は奈良少尉以下4名となっていた。この命がけの遠泳伝令により、第14師団は計画していた第二弾以降の増援計画を断念することとなった。その後飯田少佐らは悪戦苦闘しながらも9月28日に中川大佐の連隊主力と合流に成功し、中川大佐と飯田少佐は互いに感涙にむせびながら手を取り合い、日本軍の戦意はさらに高まった。
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