日本軍陣立
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天正20年3月15日、軍役の動員が命じられ、諸国大名で四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定めて、12月までに大坂に集結せよと号令された。ただしこれらの軍役の割り当ては一律ではなくて、個別の大名の事情によって減免された。動員された兵数の実数はこの8割程度ともいわれる。 主として西日本方面(西海道、南海道、山陰道、山陽道)では全面的に兵が動員されたが、東日本方面(畿内以東)では動員数が減らされた。主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、家康などの東日本の大名は肥前名護屋に駐屯した。 兵は諸侯の石高の大小に比例して動員されたため、数万人を出す大身者から、数百人を出す小身者まで様々で、これらを組み合わせて一隊が編成され、主としてその中の大身者を指揮者とした。また豊臣譜代の諸侯が外様の諸侯を指揮することとした。加藤清正や小西行長らが鍋島直茂・宗義智・松浦鎮信らを指揮下に置いたのはその例である。 全体としては概算で、名護屋滞在が10万、朝鮮出征が16万〜20万となった。ただし、この数字には人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員(補助員)が含まれていた。非戦闘員の割合は各隊でまちまちで、文禄の役における島津勢では約4割であった が、立花勢では約5割で、五島勢では約7割にも及んだ。なお、非戦闘員から兵員に転用されたという記述が後に出てくるため、これらが完全に戦闘に関与しなかったわけではないようである。 当時、日本全国の総石高は約2000万石であり、一万石あたり250人の兵が動員可能とした場合、日本の総兵力は約50万人であった。文禄の役で動員された25万〜30万の兵数は、日本の総兵力の約半分程であった。なお、豊臣秀吉の四国征伐時の豊臣軍の兵力は約10万、九州征伐時は約20万、小田原征伐時は約20万であった。 軍の構成は以下の通りであった。脚注のない数字は主に毛利家文書 と松浦古事記 による。実際に出陣したことが分かっている武将の中に表記がないものがある毛利家文書は明らかに省略されており、7番隊以後や名護屋在陣衆(旗本含む)はより詳しい松浦古事記を参考にした。先駆衆の毛利輝元 までは順次出立したが、宇喜多秀家より後の部隊は戦況に合わせて出陣しており、順番も異なって、隊として行動していたようにも見えない。首都漢城の行政を任された奉行衆や、占領地の統治を命じられ各地に分散した8番隊、あるいは伊達や佐竹など在陣衆からの増援もあった。渡海時期のよく分からない部隊もある。当初は秀吉や家康を含めた全軍が渡海する予定であったが、何かにつけて周囲が出陣を押しとどめたので、実現しなかった。 日本水軍の規模は9千人から1万人ほどであった。陸上部隊の数字の中にも若干の水軍衆が含まれていたと思われるが、それらを含めても水軍の総数は多くとも約1万数千人程度で、その主力は淡路水軍と紀伊水軍であった(来島系以外の村上水軍は小早川・毛利隊の中に含まれる)。 日本軍 統監軍・総計101,315人(名護屋城滞陣) 旗本・計27,695人 前備衆・計5,740人 富田左近将監…650人 金森長近・金森可重…800人 幡谷大膳大夫…170人 戸田勝成…300人 奥山盛昭…350人 池田長吉…400人 小出吉政…400人 津田信成…500人 上田重安…200人 山崎家盛…800人 稲葉重通…470人 市橋長勝…200人 赤松則房…200人 滝川雄利(羽柴下総守)…300人 弓鐵砲衆・計1,755人 大島雲八…200人 野村直隆…250人 木下延重…250人 船越景直…175人 伊藤長弘…250人 宮部藤左衛門尉…130人 橋本道一…150人 鈴木孫三郎…100人 生熊長勝…250人 馬廻衆 14,900人(木下吉隆、足利昌山 ほか、人物多数) 後衛衆 計5,300人 羽柴信秀(織田信秀)…300人 長束正家…500人 古田織部正…130人 山崎定勝…250人 蒔田広定…200人 中江直澄…170人 生駒修理亮…130人 生駒主殿頭…100人 溝口大炊介…100人 河尻秀長…200人 池田彌右衛門…50人 大塩与一郎…120人 木下秀規…150人 松岡右京進(九郎次郎)…100人 有馬豊氏…200人 寺沢広高…160人 寺西正勝…400人 福原長堯…500人 竹中重門…200人 長谷川守知…270人 矢部定政…100人 川勝秀氏…70人 氏家行継…250人 氏家行広…150人 寺西直次…200人 服部正栄…100人 間島氏勝…200人 予備軍 在陣衆・計73,620人 徳川家康…15,000人 豊臣秀保…10,000人 (15,000人) 前田利家・前田利長…8,000人 (10,000人) 織田信包…3,000人 結城秀康…1,500人 織田信雄…1,500人 上杉景勝…5,000人 蒲生氏郷…3,000人 佐竹義宣…3,000人弱 伊達政宗…1,500人 最上義光…500人 森忠政…2,000人 丹羽長重…800人 京極高次…800人 里見義康…150人 堀秀治・堀親良…6,000人 (7,000人) 青木一矩…1,000人(1,400人) 毛利秀頼…1,000人 木下勝俊…1,500人 村上頼勝…2,000人 溝口秀勝…1,300人 木下利房…500人 水野忠重…1,000人 宇都宮国綱…500人 秋田実季…250人 津軽為信…150人 南部信直…200人 本多康重…100人 那須資晴(那須衆)…250人 真田昌幸・真田信繁…700人 足利国朝…300人 石川康長…500人 日根野高吉…300人 北条氏盛…200人 仙石秀久…1,000人 木下延俊…250人 伊藤盛景…1,000人 出征軍・総計158,800人(総計195,100人 または総計205,570人) 第一軍「朝鮮国先駈勢」(名護屋より出撃) 一番隊・計18,700人 宗義智(先導役)…5,000人(大石智久ほか) 小西行長(先鋒)…7,000人 松浦鎮信…3,000人 有馬晴信…2,000人 大村喜前…1,000人 五島純玄(宇久純玄)…700人(水主を含む) 二番隊・計22,800人(計20,800人) 加藤清正…10,000人(8,000人) 鍋島直茂…12,000人(波多三河守…2,000) 相良長毎(頼房)…800人 三番隊・計11,000人(計12,000人) 黒田長政…5,000人(6,000人) 大友吉統(義統)…6,000人 四番隊・計14,000人 毛利勝信(森吉成)…2,000人 島津義弘…10,000人(琉球与力) 高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊ら…計2,000人 五番隊・計25,100人 福島正則…4,800人(5,000人) 戸田勝隆…3,900人(4,000人) 長宗我部元親…3,000人 蜂須賀家政…7,200人 生駒親正…5,500人 来島通之(得居通幸)と来島通総…700人(水軍) 六番隊・計15,700人 小早川隆景…10,000人(安国寺恵瓊ほか) 毛利秀包(小早川秀包)…1,500人 立花鎮虎(宗茂)…2,500人 高橋統増…800人 筑紫広門…900人 毛利輝元…30,000人(毛利秀元、吉川広家ほか) 第二軍「朝鮮国都表出勢衆」 七番隊・計17,200人(計19,200人) 宇喜多秀家(総大将)…10,000人(対馬で待機、軍監黒田孝高など)奉行衆 増田長盛…1,000人(3,000人) 石田三成(総奉行)…2,000人 大谷吉継…1,200人 前野長康…2,000人 加藤光泰…1,000人 八番隊・計15,550人 浅野幸長…3,000人 宮部長煕…1,000人(2,000人) 南条元清…1,500人 木下重堅(荒木重堅)…850人 垣屋恒総…400人 斎村政広…800人 明石則実…800人 別所吉治…500人 中川秀政…3,000人 稲葉貞通…1,400人 服部春安…800人 一柳可遊(一柳右近)…400人 竹中重利(軍目付)…300人 谷出羽守…450人 石川康勝…350人 九番隊・計25,470人 豊臣秀勝 / 織田秀信…8,000人 長岡忠興(細川忠興)…3,500人 (壱岐で待機) 長谷川秀一(羽柴藤五郎)…5,000人 木村重茲…3,500人(3,000人) 太田一吉(軍目付)…120人(160人) 牧村利貞(政吉)…700人(750人) 岡本重政…500人 糟屋武則…200人 片桐且元…200人 片桐貞隆…200人 高田豊後守…300人 藤掛三河守…200人 小野木重勝…1,000人 古田兵部少輔…200人 新庄直定…300人 早川長政…250人 森重政(毛利兵橘)…300人 亀井茲矩…1,000人(水軍) 軍目付 竹中重利、太田一吉、熊谷直盛 日本水軍 船手衆・計8,750人 九鬼嘉隆(船大将)…1,500人(志摩鳥羽) 藤堂高虎…2,000人(紀伊粉河) 脇坂安治…1,500人(淡路洲本) 加藤嘉明…1,000人(淡路志知) 来島通之・来島通総…既記(伊予来島) 菅平右衛門…250人(淡路岩屋) 桑山小藤太・桑山貞晴…1,000人(紀伊和歌山) 堀内氏善…850人(紀伊新宮) 杉若伝三郎…650人(紀伊田辺) 舟奉行(兵員物資輸送の監督) 高麗(朝鮮) 早川長政、森高政、森重政(あるいは森吉安)、宮城豊盛 壱岐 一柳可遊、加藤嘉明、藤堂高虎 対馬 服部春安、九鬼嘉隆、脇坂安治 名護屋 石田三成、大谷吉継、宮部継潤、岡本重政、牧村利貞
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日本軍陣立(慶長)
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和平交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられた。以下は慶長2年2月22日付の秀吉朱印状「慶長再征之役進發人數書」に基づく日本軍の陣立。参謀本部の『日本軍陣立て』とは書き方が異なるが一次史料に従った。 再出征軍・総計141,500人 一番隊および二番隊(先手は、加藤清正と小西行長が籤によって2日交替で担うと定められていた。先手の際には一番隊となる。) 加藤隊(三備え) 加藤清正…10,000人 小西隊・計14,700人(四備え) body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}小西行長…7,000人 宗義智…1,000人 松浦鎮信…3,000人 有馬晴信…2,000人 大村喜前…1,000人 五島玄雅…700人 三番隊・計10,000人(三備え) 黒田長政…5,000人 毛利吉成・毛利吉政…2,000人 島津豊久…800人 高橋元種…600人 秋月種長…300人 伊東祐兵…500人 相良長毎…800人 四番隊・計12,000人(四備え) 鍋島直茂・鍋島勝茂…12,000人 五番隊・計10,000人(三備え) 島津義弘…10,000人 六番隊・計13,300人(四備え) 長宗我部元親…3,000人 藤堂高虎…2,800人 池田秀氏…2,800人 加藤嘉明…2,400人 来島通総…600人 中川秀成…1,500人 菅達長…200人 七番隊・計11,100人(三備え) 蜂須賀家政…7,200人 生駒一正…2,700人 脇坂安治…1,200人 八番隊および九番隊(両人は先陣を代わったとある。) 毛利隊・(五備え・同勢) 毛利秀元…30,000人 宇喜多隊・(三備え・同勢) 宇喜多秀家…10,000人 諸城の在番衆・計20,390人 釜山浦城 小早川秀秋(総大将)…10,000人 太田一吉(軍目付)…390人 安骨浦城 立花宗茂…5,000人 加徳城 高橋直次…500人 筑紫広門…500人 竹島城 毛利秀包…1,000人 西生浦城 浅野幸長…3,000人 軍目付(慶長) 垣見一直、福原長堯、熊谷直盛、竹中重門
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