伊藤長弘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/21 00:07 UTC 版)
時代 | 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 長俊[1]、弥吉(通称) |
官位 | 従五位下、対馬守[1] |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 伊藤氏 |
妻 | 井戸村光慶の娘[1] |
子 | 半左衛門[2]、武蔵守[1] |
伊藤 長弘(いとう ながひろ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。通称は弥吉。
略歴
豊臣秀吉の鉄砲大将を務め[3][4]、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍し、天正18年(1590年)の小田原征伐では銃士200人を率いた[4]。
文禄元年(1592年)の文禄の役では御弓鉄砲衆として銃士250人を率いて肥前国名護屋城に駐屯した[4][5]。
文禄4年(1595年)正月、秀吉の草津湯治では河井九兵衛と共に山宿の警護役を務めた[3][4]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、伏見城の戦いに参加した[3][4]。以後の消息は不明。
また、同じく豊臣秀吉に仕えた伊藤長俊と同一人物とする説があり、関ヶ原の戦いの後は流浪の身となったが、年来懇意にしていた福島正則に匿われ、1、2年後に病死したという[1][注 1]。
注釈
- ^ ただし、『戦国人名辞典』では長弘と長俊を別人として記載している。
脚注
参考文献
- 柏木輝久; 北川央(監修)『大坂の陣 豊臣方人物事典』(第2)宮帯出版社、2018年、133-134頁。ISBN 978-4-8016-0007-2。
- 桑田忠親『太閤家臣団』新人物往来社、1971年、121-122頁。ASIN B000J9GTRU
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、24頁。
- 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年 。
- 伊藤長弘のページへのリンク