小早川秀包
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/08 07:32 UTC 版)
小早川 秀包(こばやかわ ひでかね)/毛利 秀包(もうり ひでかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。筑後久留米の大名。安芸国の戦国大名・毛利元就の九男で、異母兄である小早川隆景の養子となる。
注釈
- ^ 毛利元就の落胤説がある二宮就辰と井上元勝が実際に落胤であれば、秀包の兄弟にあたる。
- ^ 男色美麗なるに依って、秀吉公耽る心在しける故[2][3]。
- ^ 耳川の戦い後、龍造寺方になった麟圭は大友方の兄の良寬の神領、座主を横領した[6]。
- ^ 筑後入りの際に、秀吉が座主・良寛(麟圭の兄)に替えて座主としていた。
- ^ 筑紫広門(筑紫上野介)の養子の筑紫主水正のこと、父子とも広門の名を乗る。
- ^ 黄龍山玄済寺。現在の山口県山口市吉敷佐畑4丁目にある曹洞宗の寺院。
出典
- ^ イエズス会の資料による。
- ^ 「毛利秀包略伝」
- ^ a b 『筑後国史』筑後将士軍談 卷之第四十二 系譜小伝 第十四 毛利氏 小早川秀包並貫稱考附出 P.388
- ^ 中野等、穴井綾香『柳川の歴史4・近世大名立花家』P.127
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』29・38・39頁
- ^ 『郷土資料 第1 歴史之部』(久留米初等教員会)
- ^ 『筑後国史』筑後将士軍談 卷之第四十二 系譜小伝 第十四 毛利氏 小早川秀包並貫稱考附出 P.388~389
- ^ 『日本戦史・朝鮮役』 (本編・附記),141頁
- ^ 『問註所家譜』
- ^ 『続本朝通鑑・卷第二百二十三-後陽成天皇八 P.5560』
- ^ 「絹本着色毛利秀包像」『山口市の歴史文化資源』。2024年4月3日閲覧。
- 1 小早川秀包とは
- 2 小早川秀包の概要
- 3 生涯
- 4 人物
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