毛利元氏とは? わかりやすく解説

毛利元氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/04 13:46 UTC 版)

 
毛利元氏 / 繁沢元氏
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 弘治2年[1]1556年
死没 寛永8年10月16日[1]1631年12月9日
改名 吉川宮松丸(幼名)→吉川元棟→仁保元棟→繁沢元氏→繁沢左近入道立節[1]
別名 通称:少輔三郎[1]
号:立節[1]
戒名 蓮光院無外宗本[1]
墓所 大寧寺山口県長門市深川湯本)
大梅山通化寺(山口県岩国市周東町上久原1957)
官位 左近将監宮内大輔伊勢守
主君 毛利輝元秀就
長州藩
氏族 吉川氏仁保氏→繁沢家→阿川毛利家
父母 父:吉川元春、母:新庄局熊谷信直の娘)
養父:仁保隆在
兄弟 吉川元長元氏吉川広家吉川松寿丸
女(益田元祥室)、女(吉見元頼室)
正室:性高院桐岳珠栄(仁保隆在の娘)
側室:岡本春盛の次女[2]
長山殿(三浦元忠正室)[1]毛利元景[1]
梅岸秀芳(宮庄伊賀守室)[1]繁沢元貞[1]
昌樹院(草苅就継室)[3]、繁沢百合之助[3]
木原就重[3]、一山宗樹(飯田就重室)[3]
妙慶(内藤就正室)[3]繁沢就真[3]
松渓院(井原元栄室)[3]、女(早世)[3]
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毛利 元氏(もうり もとうじ)/ 繁沢 元氏(はんざわ もとうじ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将毛利氏の重臣。

生涯

仁保氏を相続

弘治2年(1556年)、吉川元春の次男として生まれる。永禄11年(1568年1月21日毛利輝元加冠により元服し、毛利元就より「元」の字の一字書出を受け、吉川元棟(きっかわ もとむね)と名乗った。

永禄9年(1566年11月21日周防国仁保隆在が男子のいないままに死去していたため、元亀2年(1571年)に仁保隆在の娘と婚姻し、婿養子として仁保氏の1700貫の所領と家督を相続した。これにより仁保元棟と名乗り、これ以前に与えられていた300貫と合わせて2000貫を領した。しかし、元棟(以下、元氏と表記)は未だ若年であったために、後見役・毛利氏向名代として吉川氏一族の江田智次(宮内大輔)が付けられた。

永禄12年(1569年)に尼子勝久山中幸盛ら尼子氏再興軍が出雲国へ侵攻したため、父・元春や兄・元長らと共に元氏も出雲国へ出陣した。永禄13年/元亀元年(1570年)には父や兄と共に、尼子勝久や大内輝弘と手を組んで毛利氏の後方を撹乱していた三隅国定を討ち取っている。その後、恩賞として三隅氏の旧領3000貫を得た。天正3年(1575年12月23日には安芸国上下庄北の北就勝の旧領100貫の地、天正5年(1577年2月14日には出雲国秋上氏の旧領を与えられる。また、後に長門国日本海側にある肥中港[注釈 1]瀬戸崎港[注釈 2]を押さえて、山陰の海運を担うこととなった。

出雲国への出陣以降も山陰道山陽道各地を転戦し、天正6年(1578年)の播磨上月城の戦いや、天正9年(1581年)の因幡鳥取城での戦い等に参加した。父や兄と共に救援として参陣した鳥取城の戦いでは、外曲輪への一番乗りを果たしている。天正10年(1582年5月13日吉見広頼起請文を交わし、今後の昵懇を誓った。

繁沢元氏へ改名

豊臣秀吉による九州平定に元氏も従軍したが、天正14年(1586年11月15日に父・元春、天正15年(1587年6月5日に兄・元長が従軍中に相次いで病死すると、弟の経言(後の広家)が吉川氏を相続し、元氏は輝元の意向によって同年8月に仁保氏の名跡を神田元忠に譲り、苗字と名を改めて繁沢元氏と名乗った。吉川氏の後継が元氏でなかったのは元氏が病がちであったためとされ、後の文禄・慶長の役も病により出陣できず、広家に家臣を遣わしている。また、広家が家督相続した後しばらくは元氏と広家は不仲であったようで、天正19年(1591年6月13日小早川隆景が広家へ宛てた書状では、元氏と融和することを勧めている。

天正15年9月6日には石見国福屋隆兼旧領である3000貫の地を与えられて石見国浜田城を築き在城し、天正19年(1591年)には九州平定の手当として長門国豊浦郡殿井龍山城を預けられた。これによって元氏の所領は5100貫の地に秋上氏旧領を加えたものとなり、文禄5年(1596年3月23日の分限帳では、元氏の本領が10371石6斗5升9合、一所衆の杉元良領1133石3斗2升8合、朝倉元息領824石1斗8升7合、河屋氏領22石7斗3升1合で合計12351石9斗5合が元氏の所領となっている。さらに慶長2年(1597年)に広家から安芸国内の2000石を元氏一代限りで分与された[4]が、当初元氏は2000石のうちの500から600石が課役無しであることを望んで受け取りを渋り、隆景から毛利氏の分国内にも課役の無い者はいないので広家が朝鮮に出兵する前に速やかに受け取るようにと説得を受けている[5]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が敗れ、毛利氏が長門国周防国の2か国に減封されると元氏も周防国へと移り、同年11月2日玖珂郡内に3166石を与えられた[6]

関ヶ原以後

慶長10年(1605年12月14日、同年の五郎太石事件の後に毛利氏家臣団や有力寺社の総勢820名が連署して毛利氏への忠誠や様々な取り決めを記した連署起請文において、元氏は815番目に「繁澤左近允」と署名している[7]

慶長18年(1613年)、嫡男の元景が名字を毛利に復することを許され、周防高森から転封、現在の豊北町阿川・滝部地区周辺を治める。子孫は長州藩一門家老の阿川毛利家として存続した。なお、元氏は以後も「繁沢」の苗字で通したようで、慶長20年(1615年4月14日の、毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った連署起請文では「繁澤左近入道立節」と署名している[注釈 3][8]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、嫡男・元景を大坂へ出陣する毛利秀就に従軍させ、元氏は留守居として萩城へ詰めた。同じく大坂へ出陣したものの病によって帰国した輝元は、元氏の留守居の功を賞して祝儀として小袖一つと両樽折を送っている。

元和8年(1622年3月6日、「伊勢守」の受領名を輝元から与えられた。

寛永2年(1625年8月13日の御配所付立によると、長門国豊田郡天宮の内の200石を与えられたが、同年12月22日には隠居領として周防国玖珂郡の天野伝三郎先知行地の内の中曽根村200石を与えられた。

寛永8年(1631年10月16日に死去した。享年76。元氏の200石の隠居領は末子の繁沢就真が相続した。なお、吉川元春の子の中では最も長命であった。

逸話

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 現在の山口県下関市豊北町神田肥中。
  2. ^ 現在の山口県長門市仙崎
  3. ^ この起請文での署名は座配の様に記され、長門守秀就(毛利秀就)幻庵宗瑞(毛利輝元)が向かい合い、秀就の左側に宍戸備前守元続繁澤左近入道立節(繁沢元氏)毛利甲斐守秀元毛利兵庫頭元宣吉川又次郎広正が並び、右側に毛利山城守元倶阿曽沼左兵衛頭元随吉川蔵人広家繁澤志摩守元景毛利伊賀守元鎮が並んでいる[8]
  4. ^ 現在の佐賀県唐津市呉服町にある浄土真宗本願寺派の寺院。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 82.
  2. ^ a b 萩藩諸家系譜 1983, p. 970.
  3. ^ a b c d e f g h 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 83.
  4. ^ 『吉川家文書』第698号 - 第703号。
  5. ^ 『吉川家文書』第201号、慶長2年(1597年)5月19日付け、(繁沢)元氏宛て、左衛隆景(小早川左衛門佐隆景)自筆書状。
  6. ^ 『吉川家文書』第697号、慶長5年(1600年)11月2日付け、(吉川)廣家様宛て、越前守(福原広俊)大和守(堅田元慶)中務太輔(榎本元吉)連署領地打渡注文。
  7. ^ 『毛利家文書』第1284号、慶長10年(1605年)12月14日付け、毛利氏家臣他820名連署起請文。
  8. ^ a b 『毛利家文書』第1038号、慶長20年(1615年)4月14日付け、毛利宗瑞(輝元)外十一名連署起請文。

参考文献





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