元春の嫁取り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 20:08 UTC 版)
元春は熊谷信直の娘(新庄局)を正室に娶り、生涯側室を置かず4男2女の子宝に恵まれた。 この正室の新庄局は不美人であったという逸話がある。宣阿の『陰徳太平記』巻十六「元春娶熊谷信直之女事」によると、児玉就忠が縁談を薦めた際に不美人と評判だった熊谷信直の娘を元春は自ら望み、驚いた就忠が確認すると、「信直の娘は醜く誰も結婚しようとはしないので、もし元春が娶れば信直は喜び、元春のために命がけで尽くすだろう」と話したとある。この嫁取りは勇猛で知られる熊谷信直の勢力を味方につけるための政略結婚であったと言われているが、その一方で自らを女色に溺れさせないように戒める意味もあったとされている。しかし、そのようなこととは無関係と思えるほどに夫婦仲は円満で、元春とその娘との間には吉川元長と毛利元氏、吉川広家他が生まれている。その吉川広家を度々諌めた際は、夫婦連名で書状を送るなど、新庄局は吉川家中では良妻賢母であったようである。 ただ、武田光和に嫁いだ信直の妹は絶世の美人ということであり、叔母と姪で容色がそこまで違うのかという疑問もあり、本当に不器量であったかどうかは不明である。吉川広家が存命中に成立した可能性がある『安西軍策』には元春夫人(熊谷氏)の器量が悪かったとの記述はない。しかし香川正矩の『陰徳記』に「器量が悪い」との記述が現われ、『陰徳太平記』に継承されている。一説によると疱瘡を病んだせいで顔が醜くなり、信直はこれを理由に婚約を辞退しようとしたが、元春の側がそのような理由で約束を違えるのを潔しとせず、結婚したとも言う。 なお、あえて不美人を娶った逸話としては「諸葛孔明の嫁選び」がある。史料に容貌の記載が無く後年の作品で不細工とされたのは、龐統の例がある。病による容貌悪化を承知で娶った例としては、明智光秀や高橋紹運にも同様の逸話がある。以上のように歴史上において類似の逸話が多く、実情については不明である。
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