元明朝へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/02/01 23:37 UTC 版)
しかし、改革が進行中の慶雲4年6月、文武天皇は崩御してしまう。遺子の首皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、文武天皇の母である阿閇皇女が即位するという異例の措置がとられ、元明天皇となった。 元明朝においても国制改革はさらに加速し、和銅元年(708年)には、初の流通貨幣である和同開珎の発行、および長安の造形に倣った本格的都城となる平城京遷都の詔が発せられた(平城京は長安と同じく大極殿を北端に置く。実際の遷都は2年後の和銅3年)。また同年、越後国に出羽郡(後の出羽国)が設置され、出羽柵を中心に蝦夷征討が開始、南でも隼人の入貢を促す(和銅6年(713年)には大隅国を設置)など、辺境の国土確定も積極的に行われた。この間も律令の不具合を修正する格式や律令本体の改訂作業は、藤原不比等らを中心に続けられており、後の養老律令制定につながることになる。
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