横田騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/05 11:50 UTC 版)
中村一忠は、入部当時11歳と幼少であった。このため、藩政を担当したのは叔父に当たる中村一栄と、家康から一忠の後見役として執政家老の命をうけ派遣された横田村詮であった。村詮は、幼少の一忠のもとで手腕を発揮し、吉川広家によって着手されていた米子城築城を完成させるとともに、城下町の整備・建設を行い、米子の発展の礎を築いた。藩政確立に尽力した村詮であったが、一忠の側近である安井清一郎・天野宗杷らと対立するようになった。 慶長8年(1603年)11月14日、安井・天野らに唆された一忠は村詮を殺害した。村詮の子の主馬助や、村詮の客分であった柳生宗章らは憤激して飯山に立て篭もったが、一忠は隣国出雲の堀尾吉晴の助勢を得て鎮圧した。事件の報告をうけた徳川家康は、自らが派遣した横田村詮の殺害に激怒、首謀者である安井・天野の行いを幕府への反逆とみなし、吟味も無く即刻切腹に処した。城主一忠は品川宿止め(謹慎)に収め、お構いなしとした(横田騒動、あるいは米子騒動)。
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