改訂作業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 12:28 UTC 版)
演奏技術上の小修正は別にしても、ヴェルディ自身も大改訂の必要性、特に主人公3人が終幕で相次いで死ぬという陰惨な結末の緩和については早くから認めていた。カトリック教会の影響の強いイタリア、フランスでは、主人公が修道院長に「馬鹿野郎」と叫んで自殺する、というのはかなりの問題であり、現にイタリアでこの作品はあまり演奏されないものとなりつつあった。確認される限りでも1863年には早くも改訂の可能性についてリコルディ社と話し合っている。 ヴェルディはまずピアーヴェに相談し、また一時は原作者リバス公の意見まで求めようとしたが、リバス公は1865年に亡くなり、ピアーヴェは1867年に脳卒中の発作を起こした(彼は残り8年の生涯を半身不随状態で過ごし、ヴェルディは彼とその家族のために経済援助を行った)こともあり、またヴェルディ自身、パリ・オペラ座委嘱の次作『ドン・カルロ』に忙殺されたこともあって、作業は進捗しなかった。 1868年8月になって、お蔵入り寸前の同作の改訂を積極的に再開したのはティート・リコルディであった。彼の狙いは単に作品の改善に留まらず、改訂新版を1869年のカーニヴァル・シーズンにイタリア・オペラの総本山スカラ座で行うことで、疎遠になっていたヴェルディとスカラ座との関係改善を図る、という一石二鳥のものだった。ヴェルディの新作がスカラ座で初演されたのは20年以上も昔、1845年の『ジョヴァンナ・ダルコ』(Giovanna d'Arco )以来絶えてなかったのだった(理由は金銭的なものばかりでなく、1845年当時のスカラ座支配人メレッリ(Bartolomeo Merelli)の愛人ジュゼッピーナ・ストレッポーニをヴェルディが奪った、という感情面でのもつれも多分にあった)。 改訂に沿った台本の準備のため、病臥中のピアーヴェに替わって、リコルディ社はアントニオ・ギスランツォーニに台本の改訂を依頼する。1824年ルッカの生まれで、一時はバリトン歌手として活躍したこともあるギスランツォーニは、この頃はリコルディ社の音楽雑誌「ガゼッタ・ムジカーレ・ディ・ミラノ」の編集者であった。彼はピアーヴェと同様にヴェルディの意向に忠実な作家として仕え、やがて『アイーダ』の台本を著すことにもなる。 ヴェルディはギスランツォーニの助けを得て、クライマックスを「平安に神の御許に赴くレオノーラ、酷い運命を嘆きつつも彼女の魂の平安を祈るアルヴァーロ、その両者を見守る慈しみ深い修道院長」の美しい3重唱によってピアニッシモで終わるように書き改め、また原典版は短い前奏曲で開始される形であったが、新たに全ドラマを音楽的に俯瞰する有名な序曲を作曲している。その他、場面順序の入れ替えも見られる。 当時のイタリアで最も高名なオペラ指揮者であったアンジェロ・マリアーニの指揮、その婚約者であったドイツ出身のソプラノ、テレーザ・シュトルツ(英語版)のレオノーラ役で1869年2月27日にスカラ座で行われた改訂版初演は初めて大成功となり、以後この改訂版の形でレパートリーに定着していくこととなる。なお、この上演準備中にシュトルツとヴェルディが愛人関係となり、以後マリアーニはヴェルディと決別し、イタリアにおけるワーグナー紹介を精力的に行うに至ったのは有名な事実である。
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