テレーザ・シュトルツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/18 05:49 UTC 版)
「ジュゼッピーナ・ストレッポーニ」の記事における「テレーザ・シュトルツ」の解説
名前からも察せられるように、テレーザ・シュトルツ(1834年-1902年)はイタリア人ではなく、ボヘミア出身のドラマティコ・ソプラノであった。彼女は1863年からイタリアでの活動を開始、『ドン・カルロ』イタリア初演(1867年、於ボローニャ)などで注目されており、またイタリア随一のオペラ指揮者アンジェロ・マリアーニの許婚者でもあった。 そのシュトルツとヴェルディは、1869年2月の『運命の力』改訂版初演(於ミラノ)の準備中急速に親しくなる。激怒したマリアーニは婚約を破棄、以後ヴェルディ作品と決別しイタリアにおけるリヒャルト・ワーグナー作品紹介の主導者となった。ジュゼッピーナも、ヴェルディがあまりにこのソプラノに入れ揚げていることに初めは困惑し、やがて婉曲に不快感を表すようになる(夫に宛てた手紙が現存する)。 55歳を過ぎようかというヴェルディと、35歳のシュトルツとの関係がどのようなものだったのかは明確ではない。プラトニック的なものであったとするもの、はっきりと肉体関係の存在を指摘するもの(それを裏付ける元使用人の証言もある)など様々である。20世紀に入ってヴェルディが「オペラ界の聖人」扱いされるようになると、この関係に触れること自体一種のタブーとなった観がある。 いずれにせよ女性としての魅力という点では、50歳を過ぎたジュゼッピーナはそれより20年も若いシュトルツと競争にはならなかった。そこでジュゼッピーナは、大作曲家の妻としての矜持を守る道を選ぶ。彼女は夫とシュトルツとの関係が醜聞として報じられることを防ぐため、シュトルツをむしろ自らの親友として家庭に招き入れたのである。シュトルツが必ずしも独占欲の強い女性ではなかったことも幸いし、この初老夫婦とソプラノ歌手との奇妙な三角関係は『アイーダ』イタリア初演(1872年)、『レクイエム』初演(1874年)のみならず、シュトルツが舞台を引退する1877年以降もずっと継続することになった。
※この「テレーザ・シュトルツ」の解説は、「ジュゼッピーナ・ストレッポーニ」の解説の一部です。
「テレーザ・シュトルツ」を含む「ジュゼッピーナ・ストレッポーニ」の記事については、「ジュゼッピーナ・ストレッポーニ」の概要を参照ください。
- テレーザ・シュトルツのページへのリンク