仁保氏を相続
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弘治2年(1556年)、吉川元春の次男として生まれる。永禄11年(1568年)1月21日に毛利輝元の加冠により元服し、毛利元就より「元」の字の一字書出を受け、元棟と名乗った。 永禄9年(1566年)11月21日に周防国の仁保隆在が男子のいないままに死去していたため、元亀2年(1571年)に仁保隆在の娘と婚姻し、婿養子として仁保氏の1700貫の所領と家督を相続した。これにより、これ以前に与えられていた300貫と合わせて2000貫を領した。しかし、元棟(以下、元氏と表記)は未だ若年であったために、後見役・毛利氏向名代として吉川氏一族の江田智次(宮内大輔)が付けられた。 永禄12年(1569年)に尼子勝久や山中幸盛ら尼子氏再興軍が出雲国へ侵攻したため、父・元春や兄・元長らと共に元氏も出雲国へ出陣した。永禄13年/元亀元年(1570年)には父や兄と共に、尼子勝久や大内輝弘と手を組んで毛利氏の後方を撹乱していた三隅国定を討ち取っている。その後、恩賞として三隅氏の旧領3000貫を得た。天正3年(1575年)12月23日には安芸国上下庄北の北就勝の旧領100貫の地、天正5年(1577年)2月14日には出雲国の秋上氏の旧領を与えられる。また、後に山陰地方の肥中港(現在の山口県下関市豊北町神田肥中)や瀬戸崎港(現在の山口県長門市仙崎)を押さえて、山陰の海運を担うこととなった。 出雲国への出陣以降も中国地方各地を転戦し、天正6年(1578年)の播磨国上月城の戦いや、天正9年(1581年)の因幡国鳥取城での戦い等に参加した。父や兄と共に救援として参陣した鳥取城の戦いでは、外曲輪への一番乗りを果たしている。天正10年(1582年)5月13日、吉見広頼と起請文を交わし、今後の昵懇を誓った。
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