仁保氏を相続とは? わかりやすく解説

仁保氏を相続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 10:00 UTC 版)

毛利元氏」の記事における「仁保氏を相続」の解説

弘治2年1556年)、吉川元春次男として生まれる。永禄11年1568年1月21日毛利輝元加冠により元服し毛利元就より「元」の字の一字書出を受け、元棟と名乗った永禄9年1566年11月21日周防国仁保隆在が男子のいないままに死去していたため、元亀2年1571年)に仁保隆在の娘と婚姻し、婿養子として仁保氏1700貫の所領家督相続した。これにより、これ以前与えられていた300貫と合わせて2000貫を領した。しかし、元棟(以下、元氏表記)は未だ若年であったために、後見役毛利氏名代として吉川氏一族江田智次(宮内大輔)が付けられた。 永禄12年1569年)に尼子勝久山中幸盛尼子氏再興軍が出雲国侵攻したため、父・元春や兄・元長らと共に元氏出雲国出陣した永禄13年/元亀元年1570年)には父や兄と共に尼子勝久大内輝弘手を組んで毛利氏後方撹乱していた三隅国定討ち取っている。その後恩賞として三隅氏の旧領3000貫を得た天正3年1575年12月23日には安芸国上下庄北の北就勝旧領100貫の地、天正5年1577年2月14日には出雲国秋上氏の旧領与えられるまた、後に山陰地方の肥中港現在の山口県下関市豊北町神田肥中)や瀬戸崎港(現在の山口県長門市仙崎)を押さえて山陰海運を担うこととなった出雲国への出陣以降中国地方各地転戦し天正6年1578年)の播磨国上月城の戦いや、天正9年1581年)の因幡国鳥取城での戦い等に参加した。父や兄と共に救援として参陣した鳥取城の戦いでは、外曲輪への一番乗り果たしている。天正10年1582年5月13日吉見広頼起請文交わし今後昵懇誓った

※この「仁保氏を相続」の解説は、「毛利元氏」の解説の一部です。
「仁保氏を相続」を含む「毛利元氏」の記事については、「毛利元氏」の概要を参照ください。

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