仁保村から仁保町へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 18:12 UTC 版)
「仁保村 (広島県)」の記事における「仁保村から仁保町へ」の解説
広島市への編入合併後、旧仁保村域はそのまま「広島市仁保町」となったが、1933年に似島が分離して似島町となり、1951年には金輪島が分離して宇品町に編入された。また、かつての仁保村の代表的景観は棉畑であったが、棉花輸入の関税が撤廃されたことで棉花栽培が衰退、この結果1930年代の仁保では蓮根の栽培が代わって拡大、かつての棉畑は蓮根畑へと変化していった。 1939年 - 43年には猿猴川河口が埋め立てられ、1960年以降は仁保町沖合(現在の仁保沖町)や猿猴川対岸の海面の埋め立てが開始、東洋工業(現在のマツダ)など大工場が建設、海岸線が大きく変化したため漁業も衰退に向かった。さらに宅地化の進展により蓮畑も次第に埋め立てられ減少していった。
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