仁保七浦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 18:09 UTC 版)
中世から江戸時代初めにかけての仁保は、広島湾頭に浮かぶ島嶼の一つ「仁保島」(現在の黄金山)の一部であった。この時期、仁保島と対岸の向洋には「仁保七浦」(もしくは仁保島七浦)と呼ばれる漁業集落が形成されており、その中に淵崎浦および柞木浦が含まれていた。1662年(寛文2年)の東新開(現在の東雲など)の埋め立てにより仁保島は比治山など広島城下と地続きになったが、漁業は相変わらず盛んで、淵崎を中心に海苔・カキ(広島かき)の養殖が行われ、広島藩領でも有数の産地となった。また農業では、耕地に乏しい淵崎の住民が新たに造成された東新開に田畑を求めて米・麦を栽培、ついで棉花栽培が盛んになった。
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