関ヶ原以後
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慶長18年(1613年)、嫡男の元景が名字を毛利に復することを許され、周防高森から転封、現在の豊北町阿川・滝部地区周辺を治める。子孫は長州藩一門家老の阿川毛利家として存続した。なお、元氏は以後も「繁沢」の苗字で通したようで、慶長20年(1615年)4月14日の、毛利元就の遺訓に従い毛利家へ別心を抱かない旨を誓った連署起請文では「繁澤左近入道立節」と署名している。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、嫡男・元景を大坂へ出陣する毛利秀就に従軍させ、元氏は留守居として萩城へ詰めた。同じく大坂へ出陣したものの病によって帰国した輝元は、元氏の留守居の功を賞して祝儀として小袖一つと両樽折を送っている。 元和8年(1622年)3月6日、伊勢守の受領名を輝元から与えられた。 寛永2年(1625年)8月13日の御配所付立によると、長門国豊田郡天宮の内の200石を与えられたが、同年12月22日には隠居領として周防国玖珂郡の天野伝三郎先知行地の内の中曽根村200石を与えられた。 寛永8年(1631年)閏10月16日に死去した。享年76。元氏の200石の隠居領は末子の繁沢就真が相続した。なお、吉川元春の子の中では最も長命であった。
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関ヶ原以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 06:05 UTC 版)
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで初めは西軍の大谷吉継の軍に属して北国口で戦ったが、本戦で小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷軍を壊滅させる。だが、戦後恩賞を与えられず、ついには所領を没収されている。そもそも直保は関ヶ原の戦いに参戦していなかったとする指摘もある。その後は京に住んだが、同年10月前田利長の家臣となり加賀へ赴き、松任城代として7千石を領した。慶長8年(1603年)には利長の命により先祖・赤座景秋が建立した棟岳寺を下屋敷の敷地内に移転させている。慶長11年(1606年)、越中国大門川の氾濫の検分の際、濁流を渡河中に落馬、溺死している。
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関ヶ原以後
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慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。定次は同腹の兄弟・筒井玄蕃允を城に残して会津征伐へ向かったが、その間に城を西軍方の新庄直頼、直定父子に奪われた。玄蕃允は敵兵に恐れをなし開城して高野山へ逃げた。この出来事は徳川家康の耳に入り、定次は引き返して多羅尾口から伊賀国に入った。主君の呼びかけに兵や下人らが集まり始め、大軍になった。新庄父子は勝ち目がないことを悟り、定次の嫡男を人質に和睦し、島ヶ原で開放した(『伊乱記』)。その後、定次は関ヶ原に駆けつけた。戦後、家康から所領を安堵され、新庄父子は改易された。
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