関ヶ原合戦図屏風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 01:10 UTC 版)
家康は、慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで土佐派の絵師(土佐光吉かその周辺の人物)を戦場に同行させていた。そして描かせた「関ヶ原合戦図屏風」を気に入り、駿府城広間に飾っていた。その合戦図屏風は、八曲二双の四隻三十二扇まである大屏風だったと考えられ、それには満天姫の亡き最初の夫・福島正之の活躍も描かれており、満天姫は津軽信枚へ再嫁する際に嫁入り道具に欲しいと家康にせがんだ。家康は一旦は断ったが、満天姫の身の上を不憫に思い懇願に負け、合戦図屏風は津軽家へ輿入れで持参された。 それが、1996年に国の重要文化財に指定されて大阪歴史博物館が所蔵している通称「津軽屏風」であるが、満天姫に許されたのは全体の半分の2隻だけだったらしく、現存の合戦図屏風は第1隻(第1 - 第8扇)と第3隻(第17 - 第24扇)に当たるものと考えられている。第1隻と推測される方には、決戦前日での関ヶ原の地より東方である大垣城から杭瀬川の戦い、美濃赤坂(現在の岐阜県大垣市赤坂町にある安楽寺)の家康本営までの光景が描かれており、第3隻と推測される方には、決戦当日の東軍諸隊が石田三成の陣所笹尾山に攻め寄せている様子から、天満山での宇喜多秀家隊と福島正則隊の戦い、鉄砲隊が小早川秀秋の拠る松尾山めがけ撃ちかけているなど、戦場西側の光景が描かれている。 関ケ原合戦図屏風はこの他にも全国に十数点あるが、この大阪歴史博物館蔵「津軽屏風」が最古と言われている。
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