関ヶ原合戦時の忠康
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:56 UTC 版)
慶長5年(1600年)8月23日、関ヶ原の戦いの前哨戦である合渡川の戦いでは、東軍の進軍を止めるべく、三成の命で兵1千を率いて森九兵衛らとともに合渡川畔に陣取った。兵庫や九兵衛らが兵に朝食を取らせている最中、黒田・田中隊の奇襲をうけ応戦したが、不利と見て梅野村まで退き再び敵を押し返すべく戦った。だがこの時点で戦える状態にある兵士は600人余にまで減っており、敗れて杉江勘兵衛を殿軍として大垣城まで退却した。この際勘兵衛は討ち死にする。同年9月15日の関ヶ原の戦いでは小池村の二重柵の前に陣列し、石田三成軍第二番隊大将として中島宗左衛門、大場土佐、大田伯耆、香築間蔵人、三田村織部、町野介之丞、馬渡外記、川崎五郎左衛門らを率いて戦闘に臨み、嫡男の三七郎らとともに討ち死にしたと伝わるが、遺体などが見つかっておらず、その生没は不明である(『常山紀談』『関原軍記大成』)。司馬遼太郎の歴史小説『関ヶ原』にも舞兵庫として登場する。
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