関ヶ原以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 06:42 UTC 版)
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは豊臣家との縁の深さから伊勢国の安濃津城(守将:富田信高、分部光嘉)や近江国の大津城(守将:京極高次)における開城交渉にあたった。しかし西軍に通じたと疑われ、戦後は近江飯道寺に隠棲した。 その後は慶長8年(1603年)に連歌の規則や作法を記した『無言抄』を出版した後、慶長13年(1608年)10月1日に入定した。行年73。辞世は「あだし世を めぐり果てよと 行く月の きょうの入日の 空にまかせん」。高野山奥の院に程近い場所に廟所がある。 平成20年(2008年)は応其の没後400年遠忌に当たり、和歌山県立博物館にて、特別展が開催された。
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