赤木城跡及び田平子峠刑場跡とは? わかりやすく解説

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赤木城跡及び田平子峠刑場跡

名称: 赤木城跡及び田平子峠刑場跡
ふりがな あかぎじょうあとおよびたびらことうげけいじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 三重県
市区町村 熊野市
管理団体
指定年月日 1989.10.09(平成1.10.09)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: H1-6-04赤木城跡及び田平子峠刑場跡.TXT: 赤木城豊臣秀長配下であった藤堂高虎天正十六年(一五八八)に築いた城であり、また、田平子峠は藤堂高虎らの新領主抵抗した旧来の北山国人士豪らが処刑され刑場の跡である。
 天正十三年、豊臣秀長大和紀伊及び和泉伊賀一部領すると、高虎紀伊に入るが、北山入(北山攻略にあたり北山在地豪族らの討伐懐柔が行われた。この時高虎謀略によって、北山面々赤木村境田平子峠にて梟首されたという記録があるが、この北山入のおり、高虎によって築かれたのが赤木城である。
 城跡標高二三メートル比高三〇メートル丘陵にあって北方西方大きな堀で断ち切り、高さ三メートル石垣周囲にもつ本丸中心に南東の支尾根には石垣をもつ二つのくるわ、南西同じく石垣をもつくるわを配している。石垣野面積であるが、隅には算木積用い本丸には北と南西の二か所に張り出し設けて防御上の工夫をこらし、南東には桝形虎口入口)が設けられている。規模とりわけ大きとはいえないものの、近世城郭萌芽ともいうべき城郭機能兼ね備えられており、よく天正城郭特色有しているといえよう
 こののち藤堂高虎伊予移封後、紀伊には秀長重桑山氏、ついで関ヶ原以降浅野幸長が入る。慶長十九年(一六一四)、大坂冬の陣がおこると、この北山においても大坂方に呼応して旧来の勢力による北山一揆がおきるが、その一揆浅野幸長によって再び鎮圧された。その折にもこの赤木城使用されたと考えられる
 この二度にわたる北山入、北山一揆鎮圧は「行ったら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」と長く村人語り伝えるところとなる。田平子峠は『紀伊続風土記』にも記されるように「獄門場跡」として記憶され地蔵祀られるほか後世供養碑建立されている。
 なお藤高虎徳川氏城郭縄張り多く担った人物として知られている。彼が作ったとされる城は居城普請として宇和島城国史跡)、今治城伊賀上野城国史跡)、安濃津城助役普請として和歌山城国史跡)、聚楽第膳所城伏見城江戸城(国特別史跡)、篠山城国史跡)、亀山城大坂城(国特別史跡)、二条城国史跡)等多数及んでいるが、築城名手とされた彼が初期作った城としても赤木城注目される
 赤木城跡及び田平子峠刑場跡は豊臣徳川政権確立され、その支配力全国浸透していく政治過程を示す遺跡である。とりわけ赤木城跡は天正期の遺構良好に残し近世城郭原形を示す城跡としても、豊臣徳川政権における重鎮であった藤堂高虎事績を示す城としても貴重である。また田平子刑場はこうした領主対し在地旧来勢力抵抗くり返しながらも鎮圧されていく過程を示す重要な遺跡である。よってこれらを史跡指定してその保存図ろうとするものである
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