あさの‐よしなが【浅野幸長】
浅野幸長
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浅野 幸長(あさの よしなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。紀伊和歌山藩初代藩主。浅野家15代当主。諱は長慶、長継ともいい、幸長は後年の名乗りである。
- ^ a b c d e f g h i j k l 堀田 1923, p. 697.
- ^ a b 浅野史蹟顕彰会 1917, p. 49.
- ^ 長勝の弟・長継の娘。
- ^ 杉原長房の娘。
- ^ a b 桑田 1971, p. 138.
- ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, pp. 48–49.
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 27頁。
- ^ 堀田 1923, pp. 695–697.
- ^ ただし、4年後の文禄5年には政宗は長政と絶交している。
- ^ 史料綜覧11編913冊10頁.
- ^ 堀田 1923, pp. 696–697.
- ^ a b c 堀田 1923, p. 696.
- ^ 14万石の軍役は3500人で、2万石は無役[12]。
- ^ 4万5,000石の軍役は1,000人で、1万石は無役[12]。
- ^ a b 高柳 & 松平 1981, p. 11.
- ^ 史料綜覧11編913冊75頁.
- ^ 史料綜覧11編913冊77頁.
- ^ 史料綜覧11編913冊88頁.
- ^ 石川県七尾市津向町。
- ^ 史料綜覧11編913冊90頁.
- ^ 史料綜覧11編913冊120頁.
- ^ 堀田 1923, pp. 697–698.
- ^ a b c d e f g h i j 堀田 1923, p. 698.
- ^ 史料綜覧11編913冊159頁.
- ^ 『重修譜』では10月に帰国したことになっている[23]。
- ^ 小和田泰経; 小和田哲男(監修)『関ケ原の戦い : 勝者の研究・敗者の研究』学研パブリッシング、2014年、26-27頁。ISBN 9784054060364。
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』49号、1996年
- ^ a b 浅野史蹟顕彰会 1917, p. 108.
- ^ 『浅野考譜』では慶長15年、『経年大略』『柳営譜略』では慶長14年とる[28]。
- ^ 大日本史料12編6冊359頁.
- ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, pp. 102–108.
- ^ a b 浅野史蹟顕彰会 1917, p. 110.
- ^ 大日本史料12編23冊補遺96頁.
- ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, pp. 108–109.
- ^ 大日本史料12編8冊90頁
- ^ 大日本史料12編21冊補遺283頁
- ^ 桑田 1971, p. 139.
- ^ 浅野史蹟顕彰会 1917, pp. 110–117.
- ^ "浅野幸長". 朝日日本歴史人物事典. コトバンクより2020年7月10日閲覧。
- ^ 「傾城」は、君主の寵愛を受けて(城 を滅ぼすほどほどの美女の意味で、転じて遊女をさす表現。男性名のようであるが、男娼ならば「男傾城」と書かれるはずであり、女性の仮名であろう。
- ^ 徳富猪一郎『国立国会図書館デジタルコレクション 家康時代 中巻 大阪役己篇』 第12、民友社〈近世日本国民史〉、1946年、104頁 。
浅野幸長
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