浅野長治とは? わかりやすく解説

浅野長治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/07 04:39 UTC 版)

 
浅野 長治
時代 江戸時代前期
生誕 慶長19年3月26日1614年5月4日
死没 延宝3年1月19日1675年2月13日
別名 又六郎(通称)
戒名 俊岳了英鳳源院
墓所 広島県三次市鳳源寺比熊山城跡山麓
官位 従五位下因幡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
備後三次藩
氏族 浅野氏
父母 浅野長晟:お岩(日下秀柴の娘)
兄弟 長治光晟
正室浅野長重の娘
瑤泉院
養子長尚長照
テンプレートを表示

浅野 長治(あさの ながはる)は、江戸時代前期の大名通称又六郎(またろくろう)。備後国三次藩の初代藩主官位従五位下因幡守

略歴

広島藩の初代藩主・浅野長晟庶長子として山城国にて誕生。元和5年(1619年)に2代将軍徳川秀忠御目見する。寛永7年(1630年)に従五位下・因幡守に叙任された。

寛永9年(1632年)11月2日に父の遺領のうち備後国三次郡恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となる。11月6日に領地三次に入った。三次藩の基礎を築いた名君であった。寛永10年(1633年)、高家畠山義真より『上杉流之軍配免許』「九重巻号令幕之巻」を相伝する[1]

男子がなかったため、本家を継いだ弟・光晟の次男長尚明暦3年(1657年)に養子に迎え入れたが、まもなく死去したため、3男の長照を新たに養子に迎えて家督を継がせた。また、娘に赤穂事件で有名な播磨赤穂藩浅野長矩の正室・阿久里がいる。

延宝3年(1675年)1月19日に死去した。墓所は広島県三次市にある鳳源寺のある比熊山城跡山麓。法名は俊岳了英鳳源院。

系譜

脚注

  1. ^ 三次藩文書『鳳源君御伝記』

関連項目





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「浅野長治」の関連用語

浅野長治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



浅野長治のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの浅野長治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS