浅野忠
浅野忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 09:50 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動浅野 忠(あさの ただし、文政2年10月8日(1819年12月5日) - 明治25年(1892年)11月14日)は、江戸時代末期(幕末)の広島藩の筆頭家老、のちに神職。三原領主(3万石)浅野家第11代当主。第9代当主浅野忠順の子[1]。諱は初め忠助、のちに忠厚。通称は遠江、主殿、大和、飛騨、仲之丞。号は榎蔭。
天保14年(1843年)9月、43歳にして老齢を理由に先代浅野忠敬が隠居し、忠敬の子浅野忠英は幼年だったため、家督を継いだ。嘉永6年(1853年)のペリー来航を期に、家老の上田主水、浅野豊後と連署した建白書を藩主浅野斉粛に提出し、辻将曹らとともに藩政改革を行おうとするが失敗した。そして安政2年(1855年)、藩主浅野長訓に執政更迭と改革派の登用を訴えたが、側近に阻まれ容れられず、翌安政3年(1856年)3月に病を理由として隠居を申し渡された。領地の三原に帰った忠は、時流に合わせて洋式の兵法を採用、砲台を築いた。その後、文久2年(1862年)10月より藩政に復し、軍制改革を行う。明治元年(1868年)5月、政事堂副総督となった。廃藩置県後の明治5年(1872年)厳島神社宮司となった。明治25年(1892年)、74歳で没した。
脚注
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 25頁。
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.41
参考文献
- 日本人名辞典(講談社)
- 明治維新人名辞典 / 日本歴史学会(1981吉川弘文館)
- 全国版幕末維新人物事典 / 歴史群像編集部(学研)
「浅野忠」の例文・使い方・用例・文例
- 日本人俳優の浅野忠(ただ)信(のぶ)がテムジン役を演じている。
- 陸軍の測量士である柴(しば)崎(ざき)芳(よし)太(た)郎(ろう)(浅野忠(ただ)信(のぶ))は,劔岳に登頂して測量を行う最初の人物になるように命じられる。
- その男は同社の漫画雑誌「少年サンデー」の花形漫画家,赤塚不二夫(浅野忠(ただ)信(のぶ))だった。
- 幸(こう)田(だ)(妻(つま)夫(ぶ)木(き)聡(さとし))は,大学時代の友人でトラック運転手の北川(浅野忠(ただ)信(のぶ))から一緒に銀行強盗をしないかと頼まれる。
- 一方,吉(き)良(ら)上(こうずけ)野(の)介(すけ)(浅野忠(ただ)信(のぶ))は,密(ひそ)かに浅野の領地を乗っ取る計画をたてている。
- さらに,この映画で主役の1人を演じた俳優の浅野忠(ただ)信(のぶ)さん(40)が最優秀男優賞を受賞した。
- 熊切さんは「主演の二(に)階(かい)堂(どう)ふみさんと浅野忠信さんの2人が私のイメージにぴったりでした。スタッフ全員で私のイメージを実現させるために一生懸命取り組み,結果は自分が想像していたものよりもずっと生き生きしたものとなりました。私たちはみんなで受賞したのです。」と話した。
- 何年間もの間,銭(ぜに)形(がた)警部(浅野忠(ただ)信(のぶ))はルパンを逮捕しようとしているが,成果がない。
- 夫を浅野忠(ただ)信(のぶ)さん,妻を深(ふか)津(つ)絵(え)里(り)さんが演じている。
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