文久2年 (みずのえいぬ 壬戌)
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年(年号) |
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●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 |
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●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 |
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1862年
(文久2年 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 04:53 UTC 版)
千年紀: | 2千年紀 |
---|---|
世紀: | 18世紀 - 19世紀 - 20世紀 |
十年紀: | 1840年代 1850年代 1860年代 1870年代 1880年代 |
年: | 1859年 1860年 1861年 1862年 1863年 1864年 1865年 |
1862年(1862 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
他の紀年法
- 干支:壬戌
- 日本(天保暦)
- 清
- 朝鮮
- 阮朝(ベトナム)
- 嗣徳15年
- 仏滅紀元:2404年 - 2405年
- イスラム暦:1278年6月29日 - 1279年7月9日
- ユダヤ暦:5622年4月29日 - 5623年4月9日
- 修正ユリウス日(MJD):1141 - 1505
- リリウス日(LD):101982 - 102346
※皇紀は、太陽暦採用と共に1873年に施行された。
※檀紀は、大韓民国で1948年9月25日に法的根拠を与えられたが、1961年年号廃止の法令を制定に伴い、1962年1月1日からは公式な場での使用禁止。
カレンダー
できごと
1月
- 1月6日 - メキシコ出兵: フランス,スペインおよび英国軍がベラクルスに至る
- 1月21日 - 文久遣欧使節出発
- 1月24日 - ブカレストがルーマニア公国の首都となる
- 1月30日 - 米海軍初の装甲艦「モニター」進水
- 1月31日 - アルヴァン・グラハム・クラークがシリウス伴星(シリウスB)を発見(初の白色矮星)
2月
- 2月1日 - 軍歌「リパブリック讃歌」(The Battle Hymn of the Republic)発表
- 2月6日 - 南北戦争: ヘンリー砦の戦い
- 2月13日(文久2年1月15日) - 坂下門外の変
- 2月20日 - 南北戦争: ヴァルヴァードの戦い
- 2月22日 - 南北戦争: ジェファーソン・デイヴィスが南部連合国大統領に就任
- イワン・ツルゲーネフ小説『父と子』発表
3月
- 3月6日 - プロイセン衆議院、予算細目化を求める決議を可決。プロイセン王ヴィルヘルム1世、衆議院自由主義派との対決姿勢を深める。
- 3月7日 - 南北戦争: ピーリッジの戦い
- 3月8日 - 南北戦争: ハンプトン・ローズ海戦
- 3月11日(文久2年2月11日)
- 3月17日 - プロイセン王ヴィルヘルム1世、新時代内閣を更迭。アドルフ・ツー・ホーエンローエ=インゲルフィンゲンを首相に。
- 3月28日 - 南北戦争: グロリエタの戦い
4月
5月
- 5月1日 - ロンドン万国博覧会が開幕する
- 5月5日 - ポステ・イタリアーネが開業する
- 5月5日 - メキシコ出兵: プエブラの会戦
- 5月6日 - プロイセン衆議院総選挙。自由主義派さらに躍進。政府派さらに議席減。
- 5月20日 - 米国でホームステッド法成立
- 5月21日(文久2年4月23日) - 寺田屋事件
- 雑誌「ジャパン・パンチ」創刊(チャールズ・ワーグマン)
6月
- 6月5日 - フランスが南ベトナム3省(交趾支那)を獲得(第一次サイゴン条約締結)
- 6月6日 - 南北戦争: メンフィスの戦い
- 6月19日 - アメリカ合衆国議会がドレッド・スコット対サンフォード事件の判決を破棄して、アメリカ合衆国の領域内での奴隷制を禁止。
- 6月25日(文久2年5月28日) - 第二次東禅寺事件
7月
8月
- 8月9日 - 南北戦争: シーダー山の戦い
- 8月17日 - ダコタ戦争勃発: スー族と白人の間に紛争が生じる
- 8月21日 - ウィーン市民公園(Wiener Stadtpark)開園
- 8月30日 - 南北戦争: 第二次ブルランの戦いが南軍の勝利で終わる。
9月
- 9月11日 - プロイセン議会召集。衆議院自由主義派、国王ヴィルヘルム1世の軍制改革予算案を拒否する構え。
- 9月14日(文久2年8月21日) - 生麦事件
- 9月17日
- 南北戦争: アンティータムの戦い
- プロイセン王ヴィルヘルム1世、御前会議で衆議院自由主義派の一部議員が提出した軍制改革法案の妥協案を拒否する宣言。
- 9月22日
- 9月30日 - ビスマルクが鉄血演説を行う
10月
- 10月8日 - 南北戦争: ペリービルの戦い
- 10月13日 - プロイセン議会閉会。衆議院との妥結ができなかったビスマルク、国王勅語を通じて無予算統治を宣言。
- 10月30日 - リチャード・ジョーダン・ガトリングがガトリング砲の米国特許を取得
11月
- 11月2日(文久2年9月11日) - 幕府が派遣する第1回留学生が長崎を出帆(榎本武揚、赤松則良、西周ら15名)
- 11月5日 - 南北戦争: リンカーンがジョージ・マクレラン総司令官を解任
- 11月10日 - ヴェルディ歌劇「運命の力」初演(マリインスキー劇場)
12月
- 12月6日 - ダコタ戦争: リンカーンがスー族39名の処刑を命ず
- 12月11日 - 南北戦争: フレデリックスバーグの戦い
- 12月26日 - ダコタ戦争#ダコタ族に対する一斉絞首刑: スー族38名が絞首刑となる(米国史上最多の同時処刑)
日付不詳
誕生
- 1月23日 - ダフィット・ヒルベルト、数学者(+ 1943年)
- 1月29日 - フレデリック・ディーリアス、作曲家(+ 1934年)
- 2月17日(文久2年1月19日) - 森鷗外、小説家(+ 1922年)
- 2月22日 - フルダ・ガルボルグ、作家・舞踏家(+ 1934年)
- 2月25日 - ヘレン・バンナーマン、児童文学作家(+ 1946年)
- 3月9日 - ニコライ・ピモネンコ、画家(+ 1912年)
- 4月4日 - レオニード・パステルナーク、画家(+ 1945年)
- 4月5日 - レオ・スターン、チェリスト(+ 1904年)
- 5月5日 - ジークベルト・タラッシュ、チェスプレーヤー(+ 1934年)
- 5月22日(文久2年4月24日) - 牧野富太郎、植物学者(+ 1957年)
- 5月23日 - ダミー・ホイ、メジャーリーガー(+ 1961年)
- 6月26日(文久2年5月29日) - 箕作元八、歴史家(+ 1919年)
- 7月8日 - ハンク・オーデイ、メジャーリーガー(+ 1935年)
- 7月14日 - グスタフ・クリムト、画家(+ 1918年)
- 7月21日 - 初世野村萬斎、狂言方(+ 1938年)
- 8月22日 - クロード・ドビュッシー、作曲家(+ 1918年)
- 8月29日 - モーリス・メーテルリンク、詩人・劇作家(+ 1949年)
- 9月1日(文久2年8月8日) - 新渡戸稲造、農学者・教育者(+ 1933年)
- 9月11日 - オー・ヘンリー、小説家(+ 1910年)
- 10月8日 - エミール・フォン・ザウアー、音楽家(+ 1942年)
- 11月11日 - エマニュエル・デュ・マルゲリー、地質学者・地球物理学者(+ 1953年)
- 11月15日 - ゲルハルト・ハウプトマン、劇作家・小説家(+ 1946年)
- 11月20日 - ジョルジュ・パラント、思想家・哲学者(+ 1925年)
- 11月21日 - ジョン・ポール・グード、地理学者(+ 1932年)
- 11月24日 - ベルンハルト・シュターフェンハーゲン、音楽家(+ 1914年)
- 11月26日 - オーレル・スタイン、探検家(+ 1943年)
- 12月4日 - コンスタン・モンタルド、美術家(+ 1944年)
- 11月20日 - ダン・ケイシー、メジャーリーガー(+ 1943年)
- 12月12日 - ジョセフ・ブルース・イズメイ 実業家(+ 1937年)
- 12月22日 - コニー・マック、メジャーリーグチーム監督(+ 1956年)
死去
- 1月10日 - サミュエル・コルト、コルト・ファイヤーアームズ創立者(* 1814年)
- 1月18日 - ジョン・タイラー、第10代アメリカ合衆国大統領(* 1790年)
- 2月3日 - ジャン=バティスト・ビオ、物理学者(* 1774年)
- 2月20日 - ウィリー・リンカーン、エイブラハム・リンカーンの三男(* 1850年)
- 3月23日 - カール・ロベルト・ネッセルローデ、ロシア帝国外相(* 1780年)
- 5月6日(文久2年4月8日) - 吉田東洋、土佐藩士(* 1816年)
- 5月6日 - ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、作家(* 1817年)
- 5月7日(文久2年4月9日)- 大槻俊斎、蘭方医(* 1806年)
- 5月21日(文久2年4月23日)- 有馬新七、尊皇攘夷派志士(* 1825年)
- 5月29日 - ヘンリー・バックル、歴史学者(* 1821年)
- 6月16日(文久2年5月19日)- 秀ノ山雷五郎、大相撲第9代横綱(* 1808年)
- 7月24日 - マーティン・ヴァン・ビューレン[1]、第8代アメリカ合衆国大統領(* 1782年)
- 9月1日 - フィリップ・カーニー、アメリカ陸軍の軍人(* 1815年)
- 9月3日(文久2年8月10日)- 本因坊秀策、囲碁棋士(* 1829年)
- 9月5日(文久2年8月12日)- 三遊亭圓生 (2代目)、落語家(* 1806年)
- 9月20日(文久2年8月27日)- 長野主膳、国学者・井伊直弼の謀臣(* 1815年)
- 10月17日(文久2年閏8月24日)- 小田海僊、南画家(* 1785年)
- 11月7日 - バハードゥル・シャー2世、第17代ムガル皇帝(* 1775年)
- 11月11日 - ジェイムズ・マディソン・ポーター、第18代アメリカ合衆国陸軍長官(* 1793年)
- 11月16日 - ウィリアム・プレストン、第19代アメリカ合衆国海軍長官(* 1805年)
- 12月5日(文久2年10月14日) - 津軽信順、第10代弘前藩主(* 1800年)
脚注
関連項目
文久2年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:17 UTC 版)
事件から2日後の8月23日、ニール代理公使は横浜において外国奉行・津田正路と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して津田は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話」として、ニールに反論されている。ニールは本国のジョン・ラッセル外相への報告書に、久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している。 8月30日には、老中板倉勝静邸においてニールと板倉、水野忠精との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。一方、ニールは本事件の賠償金要求については、イギリス本国の訓令を待って交渉することとしていた。 当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいたという。当の久光の幕政介入によって政事総裁職に就いた松平慶永は、本事件に関する処置案(久光の帰国差し止め等)を老中らに建言するも受け入れられず、一時登城を停止する事態となった。 一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。閏8月7日(1862年9月30日)に久光は上洛、9日に参内するが、孝明天皇はわざわざ出御して久光の労を賞し、これは無位無官の者に対しては異例の待遇であった。この事件を題材に山階宮晃親王が作った「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になって愛唱された。しかし、生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩の幕政改革の意図は攘夷ではなく、彼らの不満はむしろ幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、23日に京都を発って鹿児島に戻った。
※この「文久2年」の解説は、「生麦事件」の解説の一部です。
「文久2年」を含む「生麦事件」の記事については、「生麦事件」の概要を参照ください。
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