高島 秋帆とは? わかりやすく解説

たかしま‐しゅうはん〔‐シウハン〕【高島秋帆】

読み方:たかしましゅうはん

[1798〜1866]江戸後期兵学者砲術家日本近代砲術の祖。長崎の人。名は舜臣(きみおみ)。通称四郎太夫オランダ人蘭学兵学砲術学び高島流を創始ペリー来航機に講武所砲術指南役となる。


高島 秋帆 (たかしま しゅうはん)

1798〜1866 (寛政10年慶応2年)
砲術家西洋砲術により、幕府軍隊の近代化促進
砲術家長崎町年寄などを勤めながら荻野流砲術修めた後、オランダ人より西洋砲術を学ぶ。1840年アヘン戦争の際、幕府西洋砲術採用建議翌年徳丸ヶ原で初の洋式砲術実射演習をおこなう。その後講武所砲術師範役に任じられた。著書に本訳書高島流砲術伝書」がある。

 年(和暦)
1803年 (享和3年) 江戸開府200年 5才
1806年 (文化3年) 大火 8才
1808年 (文化5年) フェートン号事件 10
1825年 (文政8年) 異国船打払令 27
1828年 (文政11年) シーボルト事件 30
1829年 (文政12年) 江戸大火 31
1830年 (天保元年) 伊勢御蔭参り大流行 32
1837年 (天保8年) 大塩平八郎の乱 39
1839年 (天保10年) 蛮社の獄 41
1853年 (嘉永6年) 黒船来航 55
1855年 (安政2年) 安政江戸地震 57
1858年 (安政5年) 安政の大獄 60
1860年 (万延元年) 桜田門外の変 62
1862年 (文久2年) 生麦事件 64
1863年 (文久3年) 薩英戦争 65


徳川 家慶 1793年1853年 (寛政5年嘉永6年) +5
遠山 金四郎 1793年1855年 (寛政5年安政2年) +5
渡辺 崋山 1793年1841年 (寛政5年天保12年) +5
水野 忠邦 1794年1851年 (寛政6年嘉永4年) +4
千葉 周作 1794年1855年 (寛政6年安政2年) +4
Siebold Philipp Von 1796年1866年 (寛政8年慶応2年) +2
歌川 広重 1797年1858年 (寛政9年安政5年) +1
男谷 精一郎 1798年1864年 (寛政10年元治元年) 0
Harris Townsend 1804年1878年 (文化元年明治11年) -6

高島秋帆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/26 14:56 UTC 版)

 
高島秋帆
時代 江戸時代後期 - 末期(幕末
生誕 寛政10年8月15日1798年9月24日
死没 慶応2年1月14日1866年2月28日
改名 茂敦
別名 糾之丞、四郎大夫、喜平(通称)、舜臣、子厚(号)、秋帆(号)
戒名 皎月院殿碧水秋帆居士
墓所 東京都文京区向丘大円寺
長崎県長崎市寺町の晧台寺高島家墓地
官位 正四位
幕府 江戸幕府
氏族 高島氏
父母 父:高島茂起
兄弟 高島弥三郎(長兄)、久松碩次郎(次兄)
香(池田氏)
浅五郎(茂武)久松土岐太郎
養子:高島茂徳
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高島 秋帆(たかしま しゅうはん)は、江戸時代後期から末期にかけての砲術家。高島流砲術の創始者(流祖)。「火技之中興洋兵之開祖」と号することを認められた。

生涯

寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起(四郎兵衛)の三男として生まれた。先祖は近江国高島郡出身の武士で、近江源氏佐々木氏の末裔。家紋は「丸に重ね四つ目結」。文化11年(1814年)に父の跡を継ぎ、後に長崎会所調役頭取となった。藤沢東畡[注釈 1]によって大坂市中に開かれた漢学塾であった泊園書院[注釈 2]に学ぶ。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。また、この年に肥前佐賀藩武雄領主であった鍋島茂義が入門すると、翌天保6年(1835年)に免許皆伝を与えるとともに、自作第一号の大砲(青銅製モルチール砲)を献上している。

その後、アヘン戦争イギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える意見書『天保上書』を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平[注釈 3])で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行った。この時の兵装束は筒袖上衣に裁着袴(たっつけばかま)、頭に黒塗円錐形の銃陣笠であり、特に銃陣笠は見分に来ていた幕府の役人が「異様之冠物」と称するような斬新なものであった。

高島秋帆が幽閉された岡部藩陣屋跡 (埼玉県深谷市岡部1197) (2024年9月撮影)
秋帆の眠る高島家墓地(晧台寺)
秋帆の墓(東京都文京区の大円寺)

この演習の結果、秋帆は幕府からは砲術の専門家として重用され、老中阿部正弘からは「火技中興洋兵開基」と讃えられた。幕命により江川英龍下曽根信敦に洋式砲術を伝授し、さらにその門人へと高島流砲術は広まった。しかし、翌天保13年(1842年)、長崎会所の長年にわたる杜撰な運営の責任者として長崎奉行伊沢政義に逮捕・投獄され、高島家は断絶となった。幕府から重用されつつ脇荷貿易によって十万石の大名に匹敵する資金力を持つ秋帆を鳥居耀蔵が妬み「密貿易をしている」という讒訴をしたためというのが通説だが、秋帆の逮捕・長崎会所の粛清は会所経理の乱脈が銅座の精銅生産を阻害することを恐れた老中水野忠邦によって行われたものとする説もある[1]武蔵国岡部藩預けられて幽閉されたが、洋式兵学の必要を感じた諸藩は秘密裏に秋帆に接触し教わっていた。

嘉永6年(1853年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。幽閉中に鎖国・海防政策の誤りに気付き、開国・交易説に転じており、開国・通商をすべきとする『嘉永上書』を幕府に提出。攘夷論の少なくない世論もあってその後は幕府の富士見宝蔵番兼講武所支配および師範となり、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。元治元年(1864年)に『歩操新式』等の教練書を「秋帆高島敦」名で編纂した[注釈 4]慶応2年(1866年)、69歳(満67歳)で死去した。

後世への影響

秋帆が日本語の「号令」を用い、それが明治以降の軍隊や学校に受け継がれたと言う人がいる[誰?]が、オランダ人は秋帆に「軍事用語は必ずオランダ語を使うこと」を条件に西洋砲術を教授した[注釈 5]ため、秋帆は日本人の美徳として師の命令を厳守し、門人に対する号令は全てオランダ語で行っていた[注釈 6]

後に攘夷思想に基づく外国語排除運動によって、幕府や雄藩でオランダ式号令の日本語化が進められたが、オランダ語に親しんだ門弟や将兵には不評で混乱を招いたという。その後門弟達が苦心して日本語化した号令が、形を少しずつ変えながら日本の軍隊や学校の号令として普及した。いくつかの例を揚げると、「進め(マルス)」「止まれ(ハルト)」「気をつけ(ゲーフトアクト)」「前へ習え(ペロトン)」「休め(リユスト)」「頭右(ホーフド・レクツ)」「右向け右(レクツ・オム)」「狙え(セット)」「撃て(ヒュール)」「捧げ筒(プレゼンテールト・ヘットゲール)」等がある。

現在でも高島流砲術は1841年の洋式砲術演習場所となった東京都板橋区の有志[2]により継承されており、依頼があれば全国各地へ出向き高島流砲術の実射演武を行っている。

注目すべきは号令を当時と同じ「オランダ式号令」を使っている点であり、その動作は和流砲術とは異なり極めてスピーディー、まさにその後の軍隊に受け継がれる過渡期の動きと言える。

高島流砲術の門下

「砲術稽古業見分之図」
天保12年(1841年)5月9日に行われた日本初の洋式砲術・銃陣演習の様子を描いたもの(板橋区立郷土資料館蔵)

登場作品

脚注

注釈

  1. ^ 1794-1864
  2. ^ 関西大学の源流の一つ。
  3. ^ 「高島平」という地名は、秋帆によってこの場所で初めて洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われたことにちなんで名づけられたものである。
  4. ^ 著者名は本間弘武で、秋帆は監修。
  5. ^ これはオランダが日本への影響力を強めるための施策であった
  6. ^ ランドセル(背嚢=ランセル)やハトロン紙(紙包火薬=パトロン)など、オランダ語の軍事用語の中には外来語として一般に普及したものがあるが、他の外来語に較べて数が多いとは言えない。

出典

  1. ^ 山脇 1969, p. [要ページ番号]
  2. ^ 西洋流火術鉄砲隊保存会
  3. ^ 金子 1995, p. [要ページ番号]
  4. ^ 木山, p. [要ページ番号]

参考文献

日本語


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