みずの‐ただくに〔みづの‐〕【水野忠邦】
水野 忠邦 (みずの ただくに)
1794〜1851 (寛政6年〜嘉永4年) |
【老中】 出世に奔走して、老中首座に。天保の改革で挫折。 |
唐津・浜松藩主。幕閣への出世を求め、唐津から石高が低い浜松へあえて転封した。自ら「青雲の要所」と称した大坂城代への昇進を足がかりに、1839年に老中に上りつめた。天保の改革では、政策と現実の乖離が大きく、規制・統制を厳しくしたため、多くの階層から反発を受けて失脚した。のち老中に復帰するが、在職中の賄賂問題で隠居・蟄居となり、失意のうちに没した。 |
年(和暦) | ||
●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 3才 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 9才 |
●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 | 12才 |
●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 | 14才 |
●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 | 31才 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 34才 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 35才 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 | 36才 |
●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 | 43才 |
●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 | 45才 |
・為永 春水 | 1790年〜1843年 (寛政2年〜天保14年) | +4 |
・徳川 家慶 | 1793年〜1853年 (寛政5年〜嘉永6年) | +1 |
・遠山 金四郎 | 1793年〜1855年 (寛政5年〜安政2年) | +1 |
・渡辺 崋山 | 1793年〜1841年 (寛政5年〜天保12年) | +1 |
・千葉 周作 | 1794年〜1855年 (寛政6年〜安政2年) | 0 |
・Siebold Philipp Von | 1796年〜1866年 (寛政8年〜慶応2年) | -2 |
・歌川 広重 | 1797年〜1858年 (寛政9年〜安政5年) | -3 |
・高島 秋帆 | 1798年〜1866年 (寛政10年〜慶応2年) | -4 |
・男谷 精一郎 | 1798年〜1864年 (寛政10年〜元治元年) | -4 |
水野忠邦
水野 忠邦(みずの ただくに)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 06:55 UTC 版)
「天保異聞 妖奇士」の記事における「水野 忠邦(みずの ただくに)」の解説
老中首座として天保の改革を推進した。鳥居耀蔵を重用したが、後に裏切られて失脚する。その後、一時復権した際には逆に遠山景元の讒言により鳥居耀蔵を失脚させた。作中では何度か姿を見せたが、一度も顔を出すことは無かった。
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水野忠邦
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水野忠邦
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江戸城本丸の老中首座。江戸南町奉行の鳥居耀蔵とともに天保の改革を推進し、広大院にとっては政敵にあたる存在。
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水野忠邦
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水野忠邦
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