とくがわ‐いえよし〔トクがはいへよし〕【徳川家慶】
徳川家慶
徳川 家慶 (とくがわ いえよし)
1793〜1853 (寛政5年〜嘉永6年) |
【十二代将軍】 十二代将軍。享保・寛政の政治を手本に、幕政建て直しを図る。 |
十二代将軍(在職1837〜53)。大御所として実権を握った前将軍家斉の没後、弛んだ幕政の引き締めを図った。老中水野忠邦に天保の改革を実施させ、厳しく倹約令と風紀取締りを実施。その後、忠邦は罷免され、阿部正弘が老中に抜擢された。ペリー来航の際、病死。 |
年(和暦) | ||
●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 4才 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 10才 |
●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 | 13才 |
●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 | 15才 |
●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 | 32才 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 35才 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 36才 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 | 37才 |
●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 | 44才 |
●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 | 46才 |
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 | 60才 |
・為永 春水 | 1790年〜1843年 (寛政2年〜天保14年) | +3 |
・遠山 金四郎 | 1793年〜1855年 (寛政5年〜安政2年) | 0 |
・渡辺 崋山 | 1793年〜1841年 (寛政5年〜天保12年) | 0 |
・水野 忠邦 | 1794年〜1851年 (寛政6年〜嘉永4年) | -1 |
・千葉 周作 | 1794年〜1855年 (寛政6年〜安政2年) | -1 |
・Siebold Philipp Von | 1796年〜1866年 (寛政8年〜慶応2年) | -3 |
・歌川 広重 | 1797年〜1858年 (寛政9年〜安政5年) | -4 |
・高島 秋帆 | 1798年〜1866年 (寛政10年〜慶応2年) | -5 |
・男谷 精一郎 | 1798年〜1864年 (寛政10年〜元治元年) | -5 |
徳川家慶
徳川 家慶(とくがわ いえよし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 08:49 UTC 版)
「隠密包丁〜本日も憂いなし〜」の記事における「徳川 家慶(とくがわ いえよし)」の解説
江戸幕府の第12代征夷大将軍。宮村の料理を認め、台所役人になるよう命じる。
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徳川家慶(とくがわ いえよし)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 16:30 UTC 版)
「シノビノ」の記事における「徳川家慶(とくがわ いえよし)」の解説
江戸幕府将軍。病で寝たきりとなっており、実権は阿部に握られていた。
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「徳川 家慶」の例文・使い方・用例・文例
- これは徳川幕府への強烈な打撃となりました。
- 『カムイの剣』は、1868年の徳川将軍時代の崩壊と、明治天皇下での日本の復興という変革期を舞台にした、一種の侍/忍者物語だ。
- 徳川家の系図を列挙しなさい。
- 徳川幕府は1868年に終わりを告げた。
- 徳川幕府.
- この珍しい風習の起源は徳川時代にさかのぼる.
- 嘘で固めた徳川幕府
- 明治政府は徳川幕府の跡に立った
- 日本は徳川の世に栄えた
- 徳川に向かって弓を引く
- 日本外史は平氏から始まって徳川時代で終る
- 徳川幕府の治世に
- 徳川栄華録
- 徳川栄華録(書名にすれば)
- 家光は徳川三代の将軍
- 徳川時代
- 時の人は皆徳川の徳を謳歌した
- 日本外史は平氏から始まって徳川氏で終わる
- 徳川の四天王
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