徳川敦之助とは? わかりやすく解説

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徳川敦之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 01:05 UTC 版)

 
徳川敦之助
時代 江戸時代後期
生誕 寛政8年3月19日1796年4月26日)
死没 寛政11年5月7日1799年6月10日)
幕府 江戸幕府
氏族 清水徳川家
父母 父: 徳川家斉 母: 広大院
兄弟 竹千代、家慶敦之助斉順虎千代斉明斉荘池田斉衆松平斉民斉温松平斉良斉彊松平斉善蜂須賀斉裕松平斉省松平斉宣泰姫ら26男27女
なし
特記
事項
徳川斉明が清水家を継いだ。
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徳川 敦之助(とくがわ あつのすけ、寛政8年3月19日1796年4月26日) - 寛政11年5月7日1799年6月10日))は、江戸時代後期の武士御三卿清水家の第2代当主[1]

生涯

寛政8年(1796年)3月19日、11代将軍徳川家斉の五男として江戸城本丸で誕生した[2]。母は、御台所近衛寔子[3]。松平の称号を与えられ、松平敦之助と称される[3]

敦之助の誕生に、家斉・寔子夫妻のみならず、祖父の徳川(一橋)治済、外祖父の島津重豪薩摩藩前藩主)らの喜びも絶大であったという。御台所が男子を出生するのは2代将軍徳川秀忠の正室・お江与(崇源院)以来であった。ただし、その3年前に側室のお楽(香琳院)が産んだ敏次郎(後の12代将軍・家慶)が将軍家世子と定められていた。

寛政10年(1798年)7月17日、清水徳川家を継ぐ[1]

同11年(1799年)5月7日、4歳で死去した[1]。法名は体門院殿真際彰善大童子[3]上野・凌雲院へ葬られた[3]

文化2年(1805年)8月1日、弟・斉順が清水家を継いだ[1]

脚注

参考文献




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