さくま‐しょうざん〔‐シヤウザン〕【佐久間象山】
さくましょうざん 【佐久間象山】
佐久間象山 さくま しょうざん
長野生まれ。実名は国忠のちに啓、号は象山。父は松代藩の祐筆。天保4年(1833)に江戸へ出て佐藤一斎の私塾に入るが、3年後には松代に帰る。10年(1839)江戸に塾を開く。老中となった藩主真田幸貫より海外事情の研究を命じられ13年(1842)に「海防八策」を上書。安政元年(1854)吉田松陰の事件に連座して松代に蟄居。文久2年(1862)赦免。元治元年(1864)幕府の命を受けて上洛し開国論を主張したが、尊皇攘夷派によって暗殺される。
キーワード | 学者 |
---|---|
号・別称等 | 国忠, 啓 |
- 著作等(近代デジタルライブラリー収載)
-
- 象山先生詩鈔. [1], [2] / 佐久間象山著 ; 北沢正誠編 子安俊, 1878 <YDM99616>
- 山陽・象山・東湖金玉真蹟 鹿野至良, 明13.4 <YDM70829>
- 佐氏遺言 / 佐久間象山著 ; 花岡以敬編 和田義章, 明14,17 <YDM6834>
- 桜花帖 / 佐久間象山書 白井至静, 明17.6 <YDM70681>
- 恭聞帖 / 佐久間象山書 白井至静, 明17.6 <YDM70825>
- 女訓 / 佐久間象山著 ; 青木直隆注 ; 青木士亮校 長島文昌堂, 明27.1 <YDM10382>
- 佐久間象山山口菅山問答鬼神論 / 柄沢義郎編 柄沢義郎, 明32序 <YDM8965>
(注:この情報は、国立国会図書館ホームページ内の「近代日本人の肖像」の内容を転載しております。掲載内容の複製については、国立国会図書館の許諾を得る必要があります。)
佐久間象山
佐久間象山(1811-1864)
佐久間象山は、幕末の兵学・洋学者で、信濃(現長野県)松代藩士である。黒船事件以前から開国を唱えていた開国論者で、幕府の下田開港のうわさを聞くと、これを批判し、より江戸に近い横浜開港に奔走するなど、新しい日本の建設に力を尽したのだが、明治維新を見ることなく元治元年(1864)京都で亡くなった。
象山にとって洋学を活かした活動の一つの柱が西洋砲術である。
天保13年(1842年)、象山が仕える松代藩主・真田幸貫が老中兼任で海防掛に抜擢されたことを受けて、江川英龍の下で、兵学を学ぶ。そして、藩主幸貫に『海防八策』を献上し高い評価を受けた。さらに江川英龍の下で兵学を学んだ、高島秋帆の技術を取り入れて大砲の鋳造に成功した。
活動のもう一つは、松代藩の殖産開発であるが、これは必ずしも成功しなかった。
地図測量との係わりを示す物として、象山が考案し、購入に関わった測量器機と自ら開発した「人造磁ケツ器」と呼ばれる地震予知器の開発がある(安政5年? 1858)。
後者の「人造磁ケツ器」とは、馬蹄形をした磁石ののようなもので(”ケツ”とは欠けた輪の意)、これに糸で結わえた鉄片を吸い付けておくと、地震の際に鉄片がはずれておもりが落下すると考えたようであるが、実用性には疑問がある。

その「人造磁ケツ器」といくらかの測量器機が出身地である長野市松代の象山記念館に保存されている。
嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航すると、松代藩は横浜応接所の警備を命じられ、象山も「軍議役」として横浜に出張した。この経験から、横浜が開港地として優れていると幕府に具申したことから、のちに「横浜開港の父」と呼ばれるようになった。また視察に際して、松代の測量方東福寺泰作らを同行させ、海の測量に従事させたといわれているが、それは当時の測量書にもあるように、艦船停泊の遠近、艦船の大小、装備の状況把握など黒船艦船の偵察といったところであったと思われる。

佐久間象山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/10 16:39 UTC 版)
佐久間 象山(さくま しょうざん/ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士、兵学者・朱子学者・思想家。通称は修理(しゅり)、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。位階は贈正四位(1889年)[1]。象山神社の祭神。象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されている。松代三山の一人。
注釈
- ^ 『松代藩監察日記』享保13年(1728年)8月9日の条に佐久間と改めて継いだと記している。[2]
- ^ 象山は安政6年(1859年)4月28日に柳左衛門という者に宛てた書状で自分が朝信の血縁に繋がる事を大変自慢している。[6]
- ^ 象山は2月11日生まれとされていたが、発見された位牌により2月28日と確認されたという。[7]
- ^ ただし、象山の性格に驕慢な所があったのを憂い、死ぬまで象山の行く末を心配したという。[10]
- ^ In Yeddo, with this nondescript political status, and cut off from any means of livelihood, he was joyfully supported by those who sympathised with his design. One was Sakuma-Shozan, hereditary retainer of one of the Shogun’s councillors, and from him he got more than money or than money’s worth. [28]
出典
- ^ 贈位諸賢伝 増補版 上 1975, p. 51-52.
- ^ 大平 1987, pp. 5–6.
- ^ 大平 1987, pp. 6–7.
- ^ 大平 1987, p. 7.
- ^ 大平 1987, p. 8.
- ^ 大平 1987, pp. 8–9.
- ^ 大平 1987, pp. 11–12.
- ^ 大平 1987, p. 13.
- ^ 大平 1987, p. 14.
- ^ 大平 1987, pp. 15–19.
- ^ 大平 1987, pp. 37–39.
- ^ 大平 1987, p. 37, 205.
- ^ 大平 1987, p. 18, 40, 205.
- ^ 大平 1987, p. 40.
- ^ 大平 1987, p. 205.
- ^ a b 日本大百科全書『佐久間象山』。
- ^ 佐久間象山 宮本仲
- ^ 岸邉成雄 『江戸時代の琴士物語』有隣堂印刷株式会社出版部、2000年9月、132-138頁。(原典:財団法人正波邦楽協会機関紙月刊『道楽』643号、平成7年5月「探琴の旅(七)」)
- ^ 「海舟全集 第十巻」
- ^ 『海舟言行録』P130
- ^ 「観樹将軍豪快録」
- ^ 『伊藤候井上伯山縣候元勲談』
- ^ 「維新雑史考」
- ^ 大平 1987, p. 1.
- ^ 大平 1987, p. 2.
- ^ 大平 1987, pp. 3–4.
- ^ 大平 1987, p. 4.
- ^ R. L. スティーブンソン. “"Familiar Studies of Men and Books"より'Yoshida Torajiro'”. 2015年3月8日閲覧。
- 1 佐久間象山とは
- 2 佐久間象山の概要
- 3 人物・逸話
- 4 評価
- 5 参考文献
- 6 関連作品
佐久間象山(さくま しょうざん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 16:30 UTC 版)
「シノビノ」の記事における「佐久間象山(さくま しょうざん)」の解説
※この「佐久間象山(さくま しょうざん)」の解説は、「シノビノ」の解説の一部です。
「佐久間象山(さくま しょうざん)」を含む「シノビノ」の記事については、「シノビノ」の概要を参照ください。
佐久間象山(さくま しょうざん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 18:13 UTC 版)
「SIDOOH/士道」の記事における「佐久間象山(さくま しょうざん)」の解説
松代藩士。思想家。門弟には瑠儀と吉田松陰がいる。慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし、当時京は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっていた為、1864(元治元)年、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。本編には名前のみ登場。
※この「佐久間象山(さくま しょうざん)」の解説は、「SIDOOH/士道」の解説の一部です。
「佐久間象山(さくま しょうざん)」を含む「SIDOOH/士道」の記事については、「SIDOOH/士道」の概要を参照ください。
佐久間象山(さくま しょうざん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 01:26 UTC 版)
「赤い鳩」の記事における「佐久間象山(さくま しょうざん)」の解説
※この「佐久間象山(さくま しょうざん)」の解説は、「赤い鳩」の解説の一部です。
「佐久間象山(さくま しょうざん)」を含む「赤い鳩」の記事については、「赤い鳩」の概要を参照ください。
佐久間象山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 03:20 UTC 版)
佐々木の監護先の知り合いの天才で、社交家のため、海舟や坂本と中岡も知り合いの仲。
※この「佐久間象山」の解説は、「幕末イグニッション」の解説の一部です。
「佐久間象山」を含む「幕末イグニッション」の記事については、「幕末イグニッション」の概要を参照ください。
佐久間象山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 08:42 UTC 版)
江川英龍の門下で砲術を学んだ同門。その後も付き合いは続いており、磐渓は開国論の先達者として象山を尊敬していた。互いに大酒飲みで天下を語ることが好きだった彼とは馬が合った様である。また、吉田松陰(象山の弟子)に磐渓を紹介したのも彼だと思われる。
※この「佐久間象山」の解説は、「大槻磐渓」の解説の一部です。
「佐久間象山」を含む「大槻磐渓」の記事については、「大槻磐渓」の概要を参照ください。
佐久間象山(さくま しょうざん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:56 UTC 版)
「JIN-仁-」の記事における「佐久間象山(さくま しょうざん)」の解説
作中では少年時代にタイムスリップで現代に行ったことがあり、それ以来、熱心に勉学に励むようになった。
※この「佐久間象山(さくま しょうざん)」の解説は、「JIN-仁-」の解説の一部です。
「佐久間象山(さくま しょうざん)」を含む「JIN-仁-」の記事については、「JIN-仁-」の概要を参照ください。
「佐久間象山」の例文・使い方・用例・文例
固有名詞の分類
- 佐久間象山のページへのリンク