木屋町
木屋町
木屋町
木屋町
〒604-0961 京都府京都市中京区木屋町
〒572-0087 大阪府寝屋川市木屋町
〒790-0821 愛媛県松山市木屋町
木屋町通
(木屋町 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 10:27 UTC 版)

木屋町通、木屋町通り(きやまちどおり)は、京都市の南北の通りの一つである[1][2][3]。北は二条通から南は七条通まで[1]、全長約2.8キロメートル[4]の道路である[2]。先斗町の西にあり[5]、高瀬川の東側に沿って[1]中京区・下京区を貫通する[2]。
略称木屋町(きやまち)は、東西の通り名と合わせて頻用され、また通り沿い・高瀬川沿いの二条・五条間の地域を「木屋町」と通称する[3]。
三条通から南では、一部を除き高瀬川西岸に西木屋町通(にしきやまちどおり)が並走する。
略歴
慶長年間(1596年 - 1615年)の角倉了以の高瀬川開削に伴って、1611年(慶長16年)に二条樵木町(現在の中京区上樵木町付近)を起点に開通した。開通当時のこの通りは、「樵木町通[6]」と呼ばれていた[4]。
江戸時代初期(17世紀)、大坂(現在の大阪府大阪市)や伏見(現在の京都市伏見区)から薪炭・木材が高瀬舟に積まれて集まり、材木問屋・材木商が倉庫や店舗を立ち並べるようになったため、「木屋町」と呼ばれた[3]。木屋町周辺には材木町、紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名が残っている。1762年(宝暦12年)に刊行された『京町鑑』には、「木屋町」を「北二条通より南五条迄」と定義し記載している。
江戸時代中期(18世紀)には、この通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。幕末(19世紀)には勤皇志士が密会に利用したため、坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、大村益次郎や本間精一郎、佐久間象山などが殉難している。
1895年(明治28年)には、二条 - 五条間に京都電気鉄道(のちに買収され京都市電木屋町線)の路面電車が開通した[7]。1920年代(大正末年 - 昭和初年)に河原町通が拡幅されたことにより、市電のルートは河原町線に移った[8]。
1935年(昭和10年)6月29日に発生した京都大水害では、三条以南の家屋のほとんどが階下が浸水する被害を受けた[9]。
現状
高瀬川の側にサクラが植栽され、歩道を場所により車道側に飛び出させて車の高速走行を押さえるなど、整備がされている。三条通から四条通までを中心に、喫茶店、バー、スナック、料亭などに加え、各国料理レストランなど所狭しと並んでいる。風俗営業店の増加に伴い、地元が治安対策の運動を行っている。
2003年(平成15年)、京都市が地区としての「木屋町」を、「木屋町界隈」(きやまちかいわい)として「美しいまちづくり重点地区」に指定した[3]。
2016年(平成28年)、京都府暴力団排除条例が改正されたことを契機に、木屋町界隈に暴力団排除特別強化地域が設定。暴力団員等によるみかじめ料の要求も、飲食業者などからの支払いも禁止された。なお、支払った側にも1年以下の懲役又は50万円以下の罰金が課される[10]。
脚注
- ^ a b c ビジュアル・ワイド京都の大路小路 11頁
- ^ a b c 木屋町、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年9月13日閲覧。
- ^ a b c d 織田武雄. “木屋町 とは”. 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク). 2019年5月26日閲覧。
- ^ a b ビジュアル・ワイド京都の大路小路 10頁
- ^ ビジュアル・ワイド京都の大路小路 12頁
- ^ “木屋町通”. 京都観光Navi. 京都市産業観光局観光MICE推進室. 2015年4月14日閲覧。
- ^ 京都市電慕情 12頁
- ^ 京都市電慕情 42頁
- ^ 京都二条、五条の大橋流失『大阪毎日新聞』昭和10年6月29日号外(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p206-207 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ “祇園・木屋町暴力団排除宣言”. 京都府警察 (2016年). 2022年8月17日閲覧。
参考文献
- 森谷尅久『ビジュアル・ワイド 京都の大路小路』小学館、2003年。ISBN 9784096815618。
- 高松吉太郎『京都市電慕情』プレス・アイゼンバーン、1978年。
関連項目
- 高瀬川 (京都府)
- 京都市内の通り
- 河原町通(一筋西の通り)
- 木屋町 (京都市中京区)(きやちょう) - 京都府京都市中京区の公称町名。夷川通麩屋町西入及び夷川通麩屋町東入に位置する[1]。元学区では富有学区にあたる[2]。本項(木屋町通)とは別のものである。
外部リンク
京都市内の南北の通り | ||
---|---|---|
西隣の通り 河原町通・土手町通 |
北は 二条通 まで | 東隣の通り 先斗町通・三ノ宮町通 鴨川を渡って川端通 |
木屋町通 | ||
南は 七条通 まで |
- ^ 「夷川通麩屋町西入」「夷川通麩屋町東入」の意味については「京都市内の通り#住所」を参照。
- ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 26 京都府』 上巻、角川書店、1982年、520-521頁。 ISBN 4-040-01261-5。
木屋町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 04:59 UTC 版)
木屋町での生活はそれまでとは一変したものとなった。日に日に大きくなる腹のため、秀は芸妓を止めざるを得ず、俊藤はろくに働きもしなかったため、白井が持たせてくれた手切れ金はすぐに底をついた。やがて家具や着物を質草にして生活を賄うようになった。1946年(昭和21年)10月、秀は女の子を出産し、高子と名づけられた。 出産の翌年より秀は寺町四条の菊水というカフェーで働くようになる。当時、カフェーの女給には固定給は無く、指名客が落とした金やチップが収入となる仕組みであった。秀はあっという間に菊水一の稼ぎ頭となったが、半年ほどで突如店を止めた。この菊水での女給勤めの理由に関して、後の雑誌インタビューで秀は「自分が店を持つにあたっての修行見習いだった」と述べている。 木屋町の自宅を改造し、バーを開くことを思い立った秀は、その準備にとりかかった。改築費用については祇園時代より贔屓にされていた政治家大野伴睦が工面してくれることとなり、酒は西川布団の社長が見立ててくれることとなった。店の名前は「おそめ」とされた。1948年(昭和23年)、木屋町にカウンターに5、6人がようやく腰掛けられる小さなホームバーが開店した。服部良一、門田勲、大佛次郎、川口松太郎、青山二郎、白洲正子など、このホームバーの常連客として知られる者は数多く、会員制の小さなバーにも関わらず大いに繁盛したという。祇園の芸妓からバーのマダムになった第一号である。そんな中、常連客のひとりであった伊藤道郎が、東京にもおそめのような店を作って欲しいともちかけた。元来東京にある種のあこがれのようなものを持っていた秀はこの提案に一も二もなく飛びつき、東京進出という話が現実味を帯びて動き始めた。1955年(昭和30年)、伊藤は銀座3丁目の空き家を秀に紹介し、東京の「おそめ」が開店した。
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