京都市電
京都市電
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 14:30 UTC 版)
京都市では戦災はほとんどなかったものの、やはり戦争中から輸送量が急増して混雑がひどくなったうえ、部品の不足から稼動車両が減少する事態に陥った。最初に親子電車を計画したのは太平洋戦争中である。1945年(昭和20年)5月10日付で運輸省に対して申請書が提出されている。600形がモーター故障で休車状態の四輪単車を牽引するという内容で、ターミナルにおいては一度トレーラーを切り離し、元の牽引車が折り返していった後に次に来た電動車と連結して折り返すという運用の予定であった。しかし、この申請書はなぜか受理されなかったため、戦後の1947年(昭和22年)2月28日付で改めて申請を出し直している。このときは、トレーラーが1形22両と明確にされたほか、折り返しに際しては「T形方向転換」(デルタ線を利用した方向転換)を行うとされ、前回申請に書かれた切り離しは行わない形になっている。この再提出した申請書が受理され、同年12月10日からは、600形に電動機を取り外した1形を連結した親子電車が運転されるようになった。 運行系統は 烏丸車庫前 - (烏丸通) - 京都駅前 烏丸車庫前 - (烏丸通) - 烏丸今出川 - (今出川通) - 河原町今出川 - (河原町通) - 京都駅前 烏丸車庫前 - (北大路通) - 千本北大路 - (千本通) - 四条大宮 - (大宮通) - 九条大宮 四条通 - 東山通 - 今出川通 - 千本通(循環) であった(二番目と三番目をつなげると当時の5系統、また最後は1系統に相当。一番目は複数の系統がある)。当時京都駅前にはループ線があったことから、申請書に書かれた「T形方向転換」が実際に行われたのは九条大宮だけと見られる。 1948年(昭和23年)10月20日までこの形態の編成が使用された。
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