茨城交通水浜線とは? わかりやすく解説

茨城交通水浜線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 10:25 UTC 版)

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注釈

  1. ^ 水戸市街地では当初架空複線式、郊外は架空単線式だった。戦争末期にすべて架空単線式に統一した。
  2. ^ 茨城交通発足時、上水戸に変電所を設置したが経営合理化で廃止された。
  3. ^ 海運が流通の主力であった時代に、現・茨城県の太平洋側の複数の港町が漁業と合わせて流通拠点として隆盛を極めた。これらの地域を現在に至るまで三浜地区と通称する。三浜といっても厳密に三か所に限定する訳ではなく、ひたちなか市の磯崎・平磯・那珂湊や大洗町の磯浜などの地区を指す。
  4. ^ 下市は「しもいち」と読む。水戸駅の東方に位置する。対する上市は「うわいち」で、水戸駅の西側。詳細は水戸市#地域を参照されたい。
  5. ^ 1925年(大正14年)6月末の決算発表内容は、旅客収入11万6991円、貨物収入1595円、電力事業収入1万5680円、その他の収入1万7855円で、総収入が15万2121円。総支出が8万6617円、利益額が6万503円。借入金が49万7213円、利子2万761円[7]
  6. ^ 1931年(昭和6年)の満州事変以降、軍事色が濃厚になると閉鎖して元の水田に復旧された[9]
  7. ^ 旧・湊汽船を買収したもの。水浜電車は平戸停留所の先から引き込み線を分岐して涸沼川橋梁西詰北側の乗船場に停留所を設置し、直通電車を運行し1925年(大正14年)上期の収入5500円、支出5268円。連絡線単体では利益が薄いが、電気軌道部門との連帯輸送効果は大きい。水浜電車連絡船としての営業期間は1923年(大正12年)12月20日 - 1926年(大正15年)12月14日。[10][11]
  8. ^ 那珂湊駅が所在する湊町中心部への延長計画は実現しなかった。詳細は#未成線を参照のこと。
  9. ^ 1930年(昭和5年)の軌道事業の収支は、収入26万8727円、支出13万7393円、軌道負担支払利子12万3208円、雑損・償却金3万9179円。差引-3万1053円の赤字である[12]
  10. ^ のちの茨城交通のバス部門の源流の1つになった。
  11. ^ 1937年(昭和12年)上期の乗合自動車事業の収入14万5795円、軌道事業の収入11万3649円[14]
  12. ^ 1937年(昭和12年)上期の電力事業の収入22万4175円[14]
  13. ^ 赤塚 - 上水戸は1944年(昭和19年)11月18日、上水戸 - 南袴塚(後の大学前)は1945年(昭和20年)6月1日電化。袴塚 - 光台寺裏間に上水戸(旧)が存在した。茨城線と接続する上水戸(新)とは別物である。
  14. ^ 中川浩一は、茨城交通が経費削減のために将来の水浜線のバス転換を目論み、あえて不便な状況を作り出して乗客離れを促進したと指摘している[20]
  15. ^ 水戸市議会は軌道撤去推進の立場だったが沿線の大洗町常澄村は一貫して軌道存続の立場だった[20]
  16. ^ 中川 (1964) によれば2月27日。
  17. ^ a b c d e f g 祝町 - 湊、大洗 - 祝町、そして 袴塚 - 光台寺裏の監督官庁による書類上の休止認可は1948年(昭和23年)3月11日。
  18. ^ 中川 (1964) には郵便局前での2両の続行運転同士の交換や水戸駅前で同一方向にトロリーポールを上げた4両の客扱い中の写真がある。
  19. ^ 絵葉書の写真によれば飯坂電車納入分はドアがないオープンデッキで前後のデッキの間の側面窓は8個。車両限界の都合から車体幅を切り詰めた。
  20. ^ 現在のひたちなか市海門町のひたちなか商工会議所那珂湊支所と海門町集会所の位置。
  21. ^ 当初湊停留所は万衛門川に架かる橋の北側に位置したが、程なくして南側に移設された。停留所移設後の軌道終端部は橋の上であった。安全地帯や駅舎・待合室は設置されず、乗務員詰所のみが橋の南側、停留所の東側に設置されていた。現・海門橋は旧・海門橋の西側に架橋したので、取り付け道路もやや西側にずれている。

出典

  1. ^ 中川浩一 2004, p. 12.
  2. ^ 中川浩一 2004, p. 34.
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『株式会社年鑑. 昭15年版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  4. ^ 中川浩一 1981, p. 100-101.
  5. ^ 小野寺靖 2012, p. 10.
  6. ^ 原口隆行 2000, p. 62.
  7. ^ a b 中川浩一 2004, pp. 5–7.
  8. ^ 中川浩一 2004, p. 7.
  9. ^ 小野寺靖 2012, pp. 170, 188–189.
  10. ^ 中川浩一 2004, pp. 7–9.
  11. ^ a b 小野寺靖 2012, pp. 168–170.
  12. ^ a b c 中川浩一 2004, p. 9.
  13. ^ 中川浩一 2004, p. 4,10.
  14. ^ a b c 中川浩一 2004, p. 10.
  15. ^ 中川浩一 2004, p. 4.
  16. ^ 原口隆行 2000, p. 63.
  17. ^ a b 小野寺靖 2012, pp. 38, 139.
  18. ^ a b 小野寺靖 2012, p. 201.
  19. ^ 中川浩一 2004, pp. 20–21.
  20. ^ a b 中川浩一 2004, pp. 15–17.
  21. ^ 中川浩一 2004, p.20-32, p.34-35.
  22. ^ a b c 原口隆行 2000, p. 64.
  23. ^ 中川浩一 2004, pp. 34–35.
  24. ^ a b 高松吉太郎 1978, p. 83.
  25. ^ 中川浩一 2004, p. 16.
  26. ^ 小野寺靖 2012, pp. 12, 207.
  27. ^ a b 中川浩一 2004, p.11, p.17.
  28. ^ 中川浩一 2004, p.12, p.17.
  29. ^ 小野寺靖 2012, p. 179.
  30. ^ a b c d 小野寺靖 2012, p. 208.
  31. ^ 宮田憲誠 2001, pp. 44–47.
  32. ^ 中川浩一 2004, pp. 40–41.
  33. ^ 東京出版企画社 1979, p. 32.
  34. ^ 中川浩一 2004, p. 42.
  35. ^ 中川浩一 2004, pp. 24–25.
  36. ^ 中川浩一 2004, p. 47.
  37. ^ 中川浩一 2004, p. 14.
  38. ^ 小野寺靖 2012, pp. 129–136.
  39. ^ 鉄道ホビダス 編集長敬白 那珂湊の97式軽貨車を見る。2010年7月12日2017年4月30日閲覧。
  40. ^ 小野寺靖 2012, p. 24.
  41. ^ 小野寺靖 2012, pp. 66–72.
  42. ^ 森口誠之 2001, p. 188.
  43. ^ 官報 1933年07月1日 軌道特許失効 国立国会図書館デジタルコレクション2017年5月5日閲覧。
  44. ^ 官報 1934年03月15日 軌道起業廃止許可 国立国会図書館デジタルコレクション2017年5月5日閲覧。
  45. ^ 小野寺靖 2012, pp. 193.
  46. ^ 特許・茨城交通(元水浜電車)・(昭3~昭10) 国立公文書館デジタルアーカイブ2017年5月3日閲覧。


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