「理屈っぽい」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/27 21:10 UTC 版)
「理屈っぽい」の特性は、徳川光圀(水戸黄門)の創始した水戸学以来の伝統であると言われ、幕末には日本国内でも先進的な考えの下、明治維新へと突き進む原動力ともなった。『大日本史』の編集のために設置された彰考館には儒学を中心とする学者が集い、弘道館では今でいう総合大学に匹敵するような幅広い学問の教育・研究がなされた。しかし、各人の理屈っぽさが高じて、幕末には理論闘争から内紛に発展、明治時代には人材が枯渇してしまったとも言われている。 一度言い出したら一歩も譲らず、自説を貫こうとする傾向が現在も残っているという。ただし、道理の通らないような自説を無理に押し通そうとするのではなく、自身に非があれば素直に認める、という性質も持ち合わせている。 心理学者の大宮録郎は、水戸市内の路面電車(茨城交通水浜線)で「理屈っぽい」水戸市民に遭遇した体験を論文に記している。込み合う車内で車掌が乗降口付近にいる客に対し、中ほどに詰めるよう呼びかける意味で、「真ん中の方、おつめを願います」とアナウンスしたところ、中ほどにいた乗客から「真ん中の人間はどっちにつめるのけぇ」という声が飛び、乗客一同がどっと笑い声を上げた。これは、車掌の曖昧な言い方に対して、水戸人が理屈っぽく一言物を申した瞬間であった。なお、大宮録郎は東京都で生まれ育っているが、ある審議会に茨城県の代表として出席し異議を唱えたところ、「やはり茨城の方は」と言われたことがあるという。 水戸学の伝統に則って、茨城県民全体を「理屈っぽい」と評することに対しては、批判の声もある。このような声は茨城県に長く居住する者から挙げられ、茨城県師範学校・茨城県女子師範学校共編の『総合郷土研究』(1937年)では、 ところが水戸学はよく、全国民の精神に影響して居る以上に特に茨城県人に影響して居るやうには思はれないといはれる。それどころか場合によっては燈台下暗しの感を強くするといはれ甚だ心淋しく思ふことである。 — 三宅恭一 と、茨城県民に水戸学の気風があまり受け継がれていない様子を述べている。
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