「理学」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 04:53 UTC 版)
「哲学」という訳語が採用される以前、日本や中国では様々な訳案が出されてきた。とりわけ、儒学用語の「理」あるいは「格物窮理」にちなんで、「理学」と訳されることが多かった。 17世紀・明末の中国に訪れたイエズス会士ジュリオ・アレーニ(艾儒略)は、西洋の諸学を中国語で紹介する書物『西学凡』を著した。同書のなかでフィロソフィアは、「理学」または「理科」と訳されている。 日本の場合、幕末から明治初期にかけて、洋学(西洋流の学問一般)とりわけ物理学(つまり後述の自然哲学)が、「窮理学」と呼称されていた。例えば福沢諭吉の『窮理図解』は物理学的内容である。のちに文明開化が進んで西洋の諸学が正式に輸入されると、様々な訳案が出されたが、なかでも中江兆民はフィロソフィアを「理学」と訳した。具体的には、兆民の訳書『理学沿革史』(フイエ Histoire de la Philosophie の訳)や、著書の『理学鉤玄』(哲学概論)をはじめとして、主著の『三酔人経綸問答』でも「理学」が用いられている(ただし、いずれも文部省が「哲学」を採用した後のことだった)。なお、兆民は晩年の著書『一年有半』で、「わが日本古より今に至る迄哲学無し」「総ての病根此に在り」と述べたことでも知られる。 上述の中国の変法運動期の知識人の間でも、「哲学」ではなく「理学」と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった。 「理学」が最終的に採用されず、「哲学」に敗れてしまった理由については諸説ある。上述のように「理」は既に物理学に使われていたため、あるいは「理学」という言葉が儒学の一派(朱子学・宋明理学)の同義語でもあり混同されるため、あるいはフィロソフィアは儒学のような東洋思想とは別物だとも考えられたため、などとされる。上記の西周や桑木厳翼も、本来は「理学」と訳すべきだが、そのような混同を避けるために「哲学」を用いる、という立場をとっていた。この件に関して、明治哲学界の中心人物の一人・三宅雪嶺は、晩年に回顧して曰く「もしも旧幕時代に明清の学問(宋明理学と考証学)がもっと入り込んでいたならば、哲学ではなく理学と訳すことになっていただろう」「中国哲学・インド哲学という分野を作るくらいなら理学で良かった」「理学ではなく哲学を採用したのは日本の漢学者の未熟さに由来する(漢学は盛んだったがそれでもまだ力不足だった)」という旨を述べている。
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